太平洋戦争体験2(証言記録)
日中戦争に引き続き太平洋戦争と8年にわたる昭和の戦争がありました。戦争に駆り出された人々は、高齢となり、今言っておきたいことや聞いておきたいことを、今記録として残しておかないと永遠にわからなくなってしまいます。(証言記録)
そこで、NHKでは、「日本人の戦争800人の戦争体験者-第2回「太平洋 絶望の戦場」というテーマで放送していました。
「平和である日本」を維持し続けるためには、定期的に昭和の戦争を思い出し、平和の尊さをかみしめる必要があると思います。
まず、証言記録を載せる前に、「なぜ、太平洋戦争は起きたか」という大問題を知らなくてはなりません。歴史が得意でないけれど、遅ればせながら勉強したいと思います。
なぜ、太平洋戦争は起きたか
NHKラジオ深夜便「こころの時代」で「戦争体験と昭和史研究」の作家・半藤一利さん(2009/8放送)が、アナウンサーの質問「太平洋戦争はなぜ起きた?」について次のように答えられたそうです。
「色々な局面で選択を迫られた時に、昭和史の選択は本当に間違った選択を次から次にした。上に立った政治家が誤っただけではない。マスコミも誤った。例えば国際連盟からの脱退は、むしろマスコミ(新聞)が「脱退せよ」と煽った。それは事実としてある。それに国民が煽られ、「国際連盟なにするものぞ」「栄光ある孤立だ」「我が道を行く」と国民は熱狂する。という形で一つ一つの所で大事な選択を皆で良く考えて、日本の生きる道というのは、国際社会のなかでどの道が一番正しいかを考える事をせずに、次から次へと強硬路線を取って選択を誤って行った。というのが結果として世界中を相手に戦争する形になったのだと思う。」
色々な局面とは何か
- 満州事変(1931年)と国際連盟脱退(1933年)
- 日本が中国に所有していた南満州鉄道(満鉄)を中国人が爆破させました。国際連盟が調べたら、日本が行ったことが分かりました。これに日本は怒り国際連盟を止めました。
- 盧溝橋事件
- 日本軍と中国軍が対立していた時に、銃声が聞こえ、お互いが敵の発砲と思い戦いが始まり日中戦争へと発展しました。アメリカは、日本へ日中戦争を止めろと言いましたが、日本は止めませんでした。アメリカは、国際連盟に加入している中国の味方をしました。
- 真珠湾攻撃(1941年)
- 日本がハワイの真珠湾楽天 攻撃をしたことにより、アメリカも日本への攻撃を始めました。(当時、ヨーロッパでも戦争が起こっていて、日本はドイツ、イタリアと3国で軍事同盟を結び、強気になっていたようです)
- 原爆投下される
- 原爆が広島、長崎に投下されたことにより、この戦争に終止符が打たれました。広島へ投下された理由は、日本の軍隊の基地があったからだそうです。
国際連盟から脱退したために、ABCD包囲陣から日本へ物資を供給してもらえなくなりました。ABCDとは、アメリカ、イギリス(ブリティッシュ)、中国(チャイナ)、オランダ(ダッチ)です。当時、日本は食料のほとんどを外国に依存していたためにとても困りました。
日中戦争について
日中戦争は、1937年・昭和12年に起きました。中国大陸には、50万人もの日本兵が常時駐留していたそうです。
三重県の山中さんの証言
山中さんは20歳で招集されました。現在92歳です。
「夜の点呼が怖くて。済んだらピンタや。一人の落ち度で、みんなピンタをくらうことに。歯向かったら、銃殺や。どんな命令でもやる。そういう風にしこむんや」
中村さんの証言
中村さんは現在92歳です。「帰りたい、内地へ帰りたいと言って自殺した人もいる。精神的に参って、同年兵は、入って3ヶ月で死んだ」
「兵士の予想を越えた激しい戦いとなった。中国は、欧米から戦機を仕入れていた。7ヶ月の行軍で、次々に負傷して死んだ、病気でも死んだ」
衛生兵だった飯塚さんの証言
当時衛生兵だった飯塚清さんは7か月にも及ぶ行軍の中で次々と倒れていく戦友をみとりました。
「俺んとこに死ぬにはどうすりゃいいって来るだよ。みんな死にたいと言ってた。生きていたいなんて人はいないよ」
高宮軍曹の証言
「一番ひどいのは消耗品の兵隊だよ」「腐敗する悪臭がひどいけど、平気で食事する神経。腐った死体がゴロゴロしていた」
「弔いはね、遺骨を取らなければならない。腕を取って腕だけ焼く。指を切って、ご飯を炊く時に、飯盒の火の中に入れて焼き、袋に入れて、階級と名前を書いて、背嚢に入れて内地まで持って帰った」
戦争に駆り出された村
全ての日本人を動員し、総力戦として戦われた昭和の戦争。
長野県の旧南向村では日中戦争開戦以降946人が出征しました。村を離れる兵士たちが渡った坂戸橋で見送りが繰り返され、この橋を関して昭和の戦争につながっていました。
坂戸橋は、東洋一のコンクリートのアーチ橋で、村の誇りでした。この橋で出征兵士を送りました。
最後の年には、422人が村から送り出されました。多くは太平洋の戦地で、逃げ場のない島での戦争に追い込まれて行きました。
下平ちさとさん96歳の証言
下平さんは当時22歳、夫となる人を送り出しました。「神様が守ってくれる。日本は勝つに決まっている」と思っていたと言います。
昭和15年に夫を乗せた輸送船がアメリカ軍に撃沈され、その5ヶ月後に夫の遺骨が帰ってくると聞き、部隊の本部・松本まで足を運びました。
遺骨の代わりに、サンゴのかけらが2つ桐の箱に入っていたそうです。松本に遺骨を貰いに行ったが、骨箱が富士山の高さくらいにあったように感じたそうです。箱を首にかけて銘々が貰って帰ったそうです。
下平さんは当時子どもを授かっており、立派に育てると言ったと話しました。こうして二度と帰らぬ人が増えていきました。
「国が狭いから、広い所が欲しいというのが、日本だった。夫は『後は頼むぞ』と言っていました」
「遺骨を手に出来なかった。大工仕事の好きな働き者の夫でした」
竹本ひさえさん101歳の証言
竹本ひさえさんは、結婚して3年の頃夫は出征し、その2ヶ月後河北省で戦死しました。村で一番の戦死者でした。「本当はもっと働いてくれた方がよかった」と話しています。
戦死から5日後の新聞に載りました。2人目の戦死者が出てから、村葬が行われ800人が集まりました。そして、お米と養蚕をしていた竹本さん宅には、村人が農作業を手伝いに来てくれたそうです。
「お国のためだけど、犠牲者が多く、片っ端から犠牲者となった」
鈴木定平さんの証言
日本軍は優勢に戦いを進めていて北部中部を次々に勢力下に治めていました。日本軍は民間人が暮らす街や村に大規模な兵力を駐留させました。中国山西省では約9万の兵士が、北海道の2倍の広大な地域の警備を命じられました。
鈴木定平さんは「当時の軍曹が頭を出したら、ぶち抜かれて死んでしまった」「戦地へ行った一番初めの行動で敵の鉄砲の弾を覚えると同時に、戦死した人を目の前に見て、そんなショックなことはなかった」
近藤さん91歳の証言
近藤さんは、昭和15年、20歳で山西省へ行きました。「一個中隊200名全滅したという所へ行った。えらいところに放り込まれたと思った」
入隊した当時銃の持ち方も知らなかった近藤一さんは、現地に行ってから訓練をしました。くくりつけてあった中国人が70人くらいいて、銃剣で刺殺訓練を行ったと話しました。頭の中がおかしくなって、気の弱い人ばかりが気が強くなるようにさせられていたそうです。近藤さんは、情けなかったと言っていました。
毛沢東率いる八路軍は、ゲリラ戦法をとっていました。神出鬼没で、反日で教育し民兵を作っていました。百姓の風をしているのが、鍬を急に鉄棒に変えて襲って来ました。誰が八路軍か、住民か見分けがつかなかったそうです。
中村さんの証言
中村正八さんの任務の1つは、日本軍に協力的な住民を増やすことで、中国の結婚式にも4人位で参加しました。
しかし、銃はもっていなかったので油断はできなかったし、緊張しながら行ったと語っていました。
宮原良助さんの証言
宮原良助さんは「敵だったらみんなやっつけるということが頭にあった」と話していました。
祭りなどに八路軍が来ていて一回だけ襲撃したこともあったと話しました。住民と八路軍が一緒くたなのでどうしても撃っていました。襲撃したら、一般の人は逃げるそうです。
宮原さんは、「戦争の話はせんようにしとります。過去のことはさっぱりわかりません。よかったか、それも分かりません。私らの端っこの人間にはわかりません」と言っていました。
「第一期晋中作戦戦闘詳報」には八路軍のゲリラ戦に苦しんでいた部隊が下した命令が書いてあります。決定的に滅ぼす「燼滅(じんめつ)」と書かれており、集落の焼却や民間人の殺害もやむを得ないとしていました。
「戦陣訓(せんじんくん)」というもの
日中戦争は予想を超えて長期化し、補給はほとんどなく食糧不足が大きな問題となりました。食料の略奪、人肉を食べた、食料の奪い合い等も出てきたようです。略奪の罪で軍が処罰した兵士は2年間で799人にのぼりました。
軍紀の乱れが住民の攻撃意識を煽り、中国での治安工作を進める上で大きな障害になるために、陸軍は戦場で将兵が守るべき指針として「戦陣訓」を打ち出しました。
「戦陣訓」には、敵や住民を軽侮することを止める、潔い死を美徳とする誠心も盛り込まれていました。戦陣訓は国に命を捧げることを称えるものとして国民の間に広まっていきました。戦陣訓は歌になってレコード会社から売りだされもしました。
軍隊の規則だから戦陣訓は守らないといけないもので、戦陣訓には「死ね」という言葉があり、兵士達に重くのしかかって来ました。
「戦陣訓」で
- 死ねという言葉が「戦陣訓」にあるから・・・89歳
- 捕虜になれば、親兄弟、親戚が非国民でやられるから、死ななければならない・・・88歳
- 手榴弾を使って、自決するよりほか無い・・・87歳
- 死を覚悟して突撃し、重症を負って捕虜になった・・・89歳
- 海軍に入り、「不惜身命」「粉骨砕身」を目指した・・・84歳
- 21歳だった。日の丸に寄せ書きをしてもらった「尽忠報国」と書いてくれた人がいたが、死を覚悟して国に尽くすという意味だった。・・・88歳
旧南向村などでは相次ぐ凶作などが村人を追い詰め、村人たちも子どもを身売りせざるをえない家がでてきていたそうです。
レイテ島では
昭和19年の秋に米軍がレイテ島(フィリピンの中部にある島)に上陸し、2ヶ月に及ぶ激戦が繰り広げられました。
圧倒的な火力を前に兵士たちは次々と命を落としていき、銃で撃たれて手当てしても1日ぐらいで出血多量で死んでしまう人もいました。
火炎放射器であおられている兵隊などは、裸で体中が大きな火ぶくれで、泣きながら歩いていたそうです。
ルソン島体験
ルソン島は、フィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島です。フィリピンの総面積の35%を占め、首都マニラやフィリピン一人口の多いケソンはこの島にあります。
荻原金四郎さん、88歳の証言
秋田県の農家に生まれた荻原金四郎さんは、21歳の時にルソン島で戦い、かろうじて生き延びました。ルソン島では、8割の日本兵が命を落としました。「生きることはこのくらい苦しいことか」と思ったそうです。
米軍だけでなく、米軍が武器を渡している抗日部隊からも襲撃を受けました。抗日部隊は、ジャングルに潜み木の上から不意に銃撃して来ました。そして、日本の兵隊を殺したら報奨金が出たようで、残虐な殺し方(証拠として耳を削ぎ落とされた)をされました。
兵士たちは仲間が命を落とした集落の討伐(皆殺し)を命じられました。集結させる中隊と虐殺する中隊に分けられていました。悩みはあったが、軍隊にいる以上命令に従わなくてはいけません。背いたら死刑になります、殺されます。軍法会議で殺されるのは、戦争で殺されるのとは違います。
「今まで、ゲリラ討伐のことは隠していました。今思えば、人間としてしてはいけないことをフィリピンの住民にして申し訳ない。いかに戦争と言えども、命令と言えども。とんでもない人殺しをしてしまった」
戦争の悲劇は、正にここにある気がしました。常識のある普通の人を、無理矢理に人殺しにさせ、一生涯悩み苦しませるのです。殆どの人が、荻原さんの立場になったら心を鬼にして同じ事をしていたと思います。