太平洋戦争体験1(証言記録)

日中戦争に引き続き太平洋戦争と8年にわたる昭和の戦争がありました。戦争に駆り出された人々は、高齢となり、今言っておきたいことや聞いておきたいことを、今記録として残しておかないと永遠にわからなくなってしまいます。(証言記録)

そこで、NHKでは、「日本人の戦争 800人の戦争体験者-第1回「アジア 民衆に包囲された戦場」というテーマで放送していました。

「平和である日本」を維持し続けるためには、定期的に昭和の戦争を思い出し、平和の尊さをかみしめる必要があると思います。2011.12

太平洋戦争から70年経過

日中戦争から、太平洋戦争に突入したのが1941年ですから、今から70年前のことになります。

ニューギニア楽天 の戦地に渡った岡さん90歳は、「初めて言う、全く地獄だった。地獄の入口で済んだから良かった。自分の罰は、生きて帰った罰だと思ったよ」

NHKでは、4年にわたり800人の戦争体験者に、「今私達にかける重い言葉」を集めてくれました。

そして、昭和19年以降、戦死者の8割を越える人々が亡くなりました。証言記録を取っていく中で、最後の1年あまりに何が起きていたかを明らかにしていきました。

本山さん(ニューギニア小隊長)、89歳の証言

62人の部下がいました。生きては帰れぬと言われていました。「自決より殺してもらいたいと言うので、俺が引き金を引いてやったこともある。大した戦争だで。親が聞けばな、本当に」

ニューギニアでは、3年半にわたり戦闘が行われました。20万人投入し、18万人が亡くなりました。昭和17年から20年にかけてのことです。19年夏には、一大決戦があり、長期の戦いで兵士は疲弊していきました。

生き残った兵は、廃村に取り残されました。援軍も補給も断念、飢えと病が兵士に襲いかかりました。

寺沢さん94歳の証言

寺沢さんは当時29歳でした。

「月を見て、俺一人でも帰りたいと思った」と言われます。

石川さん、88歳の証言

木に寄りかかっている兵士がいた。口が開いていてウジ虫が動いていた。死んでいるのかと思ったら生きていた。「助けてくれ」と言われても、こっちもやっと歩いているのです。

小林さん、88歳の証言

人肉事件が頻繁に聞こえてきました。兵隊は一人で歩いてはいけないと言われました。共食いをやったと憲兵が来て「人肉を食する者は厳罰に処する。敵国人は除くと」言いました。

塩を持っていた兵士を手榴弾で殺した者がいました。

「残虐、虐殺だよ。大本営とか、方面軍の上層部を恨むよ。帰ってから自殺しておられる旅団長もおられるけど」「えらそうに言っているけど、死んでいる人に申し訳ない。偉そうに」

夫をニューギニアで亡くした藤枝さんの証言

岩手県の旧藤根村では、608人の若者を送り込みました。昭和19年以降には、9割の111人が亡くなっています。

軍から夫は病死したと知らされました。戦友を訪ねて聞いたら、ヘビやカエルを食べたが、夫はジャングル草しか食べられなかったと、言いました。

夫は稲わらを干していた中からネズミが出てきた時にも、ネズミを殺すなと言うような、気持ちの優しい人でした。

小学校教師、高橋峯次郎さん

高橋さんは、軍事訓練を担当し、兵隊バカと言われたそうです。

「真友」という小さな新聞を作りました。兵隊に出た家の留守家庭を訪ねて、その様子を書き戦地の兵士に知らせました。故郷の暮らしは平穏であると伝え、戦地で頑張って戦えというもののようです。国策を信じ、熱狂的に支持した日本人の一人であったかもしれません。

戦地の兵士は、この「真友」を心待ちにしていました。家族の記事が、たとえほんの数行であっても嬉しかったと言っていました。

戦後、高橋峯次郎さんは、私財を投じて「平和観音堂」を作りました。鐘を叩くと戦死者の声に聞こえると言います。そして、高橋さんは、帰って来られなかった人に対して申し訳ないと、遺族の家を訪ねては、頭を下げて回ったそうです。

夫が二度の出征をした高橋キエさん、89歳

当時夫は27歳でした。夫は戦地に行くことを嫌がっていました。そこで、キエさんは「おれの兄さんは2度も3度も行ったのに、意志が弱いね」と言ってしまったそうです。

出征して5カ月後に戦死しました。「つまらない戦争をしたものだ」と言います。

集団投降

東部ニューギニアで、日本の兵士は連合軍に追われ、さらに奥地へと進みました。昭和20年春、ある部隊が突如姿を消しました。

探しに行くと誰もいなくて、方方を探したが見つからず、集団で投降していました。

日本陸軍では、あってはならないことです。「戦陣訓」があるからです。

竹永正治中佐で、42人がオーストラリア軍に集団降伏しました。その頃には投降するようにと、空からチラシがまかれていました。この軍は置き去りにされたと思っていたようです。

堀江さん、93歳の証言

「部下の苦しみに耐えかねたと思う。みんな生きたいですよ。苦しみから逃れたいですよ。軍人として心を鬼にして大義に生きなければ」「捕虜は殺して欲しい、日本に送還しないでほしい」

「元兵士や戦友と会うことは一切ないです。なんとなく、亡くなった戦友に申し訳ない。私だけ内地に帰って死ねるのに、戦友に対して申し訳ない。ニューギニアのことは思い出したくない。なんで、あんな所へ行ったのか」

内田寿三郎さん、95歳

ニューブリテン島で戦いました。「引き上げる時に、負傷兵を置き去りにするように言われた。自分で自分が許せないわけです。」

佐野さん、87歳

200人の部下のうち4人しか生きれませんでした。

奥様は、「夫は子どもが家を建てたり、病院を開業しても行きません」と言います。

「あれだけ、みんなに死ぬことを薦めてきたのに、本人が遊んだらダメです。戦争だけはいけません。しかし、時代が変れば、次々と変わってくるだろう」

佐野さんは、取材の3ヶ月後に87歳で他界されました。一生を戦争に翻弄された人生でした。佐野さんが危惧されていたように、時代が変わっても戦争の悲惨さを忘れずに、戦争体験者の声を生かし続けなければなりません。

沖縄戦の様子

昭和20年4月1日、米軍50万人が沖縄に上陸しました。そして、9万4000人の島の人の命が失われました。

二瓶寅吉さん、84歳で他界の証言

二瓶さんが、18歳の時に一家は集団自決を迫られました。お母さんは、手を合わせて頼みました。「よし、わかった」と、心臓を狙って打ったそうです。お父さんは、頭を打てと言うので、そのようにしました。

妹は9歳でお母さんのようにと言います。しかし、水が飲みたいと言い水を飲み「うまい、あんちゃん、撃ってよ。もういいわ、お母ちゃんの所へ行くから」と言いました。

並里さん、74歳の証言

「心の中で硬い石になっている。思い出すと耐えられないことがある、今でも」

「日本国民は、一等国民だからやらんとどうする。共に生き、共に死ぬ」

並里さんは当時9歳でした。壕の中、母の腕の中で6ヶ月の子が泣きました。住民も「あの子をどうにかしろ」と言い、日本兵もイライラしていた。そして、20歳くらいの義勇兵の人に「貴様、撃て」と言いました。

母は、弟の顔を息ができないほど抱きしめて殺してしまったのです。

沖縄では15歳から少年義勇隊、14~16歳による女子救護隊も結成され戦いました。(17歳になると徴兵検査を受けます)

沖縄の伊江島に日本軍の飛行場がありましたが、3日間で米軍に占領されました。

知念さん、81歳の証言

当時は16歳でした。「死ぬ気で戦車を潰せばいいと、手榴弾を持っていく。手柄をたてようねと出ていったが、一人も帰ってこない」

***戦争になると、人を殺すか自分が殺されるかという極限状態に落ち込んだ人間は、思考が停止してしまいます。そうすることで、自分を守っているんだと思います。そんな悲しい状態に陥らないように、戦争を知らない私達は、戦争を何としても避けなければなりません。

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更新日:2020/03/15