過去の巨大津波から学ぶ

2012年1月15日の「ザ・スクープSP 過去からのメッセージ 古文書が語る巨大津波」を放送していました。

今、東海・南海・東南海連動型地震の震度や津波の及び地域の見直しがなされている最中です。東日本大震災後の地質調査などで、過去の大きな地震による津波の堆積物が発見されたことによるものです。

また、過去の地震や大津波を記録した古文書の研究も、ここに来て重要視されてきました。5000年以上前からの長期間の過去の地震や大津波から学ぶものがたくさんあります。

869年の貞観地震(じょうがんじしん)では、三陸地方に大被害

869年7月9日に貞観三陸地震が起きました。マグニチュードは、8.3~8.6と言われています。

地震に伴う津波の被害が甚大で死者約1,000人で、多賀城が損壊しました。

津波堆積物調査から震源域が岩手県沖か福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘されています。

宮城県名取市閖上地区(ゆりあげちく)

閖上という名前が正に、門の中に水が入り上がってくるということを表しています。この度の東日本大震災でも、海水は街路灯のてっぺんまで来たそうです。

閖上地区に住んでいる人の中には、「津波を意識しなかった。経験がないから」と言っていました。閖上地区の1割の人が津波の犠牲者となりました。

貞観地震では、溺死者が1000人ばかりでしたが、今の人口比にすると2万人が亡くなったことになります。この貞観地震は、古文書楽天 では「日本三大実録」にのみ書かれているそうです。

この貞観地震の国内への影響は大きく、京都御霊会が行われたようです。御霊信仰(ごりょうしんこう)は、天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだ人や非業の死を遂げた人の「怨霊」のしわざと見て恐れ、「怨霊」を鎮めて「御霊」とすることで祟りを免れ、平穏と繁栄をもたらそうとした日本の信仰のことです。

また、当時26歳だった菅原道真は、官僚の試験で「地震とは何か」という設問に苦しめられたそうです。当時は、地殻変動などの学問が無かったから、どう答えたらよいのか難しそうです。

平泉の浄土信仰は、貞観地震からと言われています。

石巻の地層から分かること

石巻の地層から、貞観地震の浸水範囲は、今回の東日本大震災の浸水範囲とほぼ同じと分かりました。東電は、塩屋崎地震以上のものは来ないと言及していました。

地震の専門家は、「貞観地震は塩屋崎地震と比べ物にならないほど大きいし、多賀城が壊れたという記録もあります」と、言っていました。

今回の東日本大震災の津波の跡の地層、約1000年前の貞観地震の津波の跡の地層、そして2000年前の巨大地震の津波の跡の地層も見つかりました。

気仙沼市の断崖の地層から

東日本大震災後に、北海道大学の平川教授(地震考古学)は、気仙沼市の断崖の地層の堆積物の調査をしています。

堆積物から、1611年慶長三陸津波、864年の貞観地震による津波、2200年前の津波、2500年前の津波、3500年前の津波、5400年前の津波が認められました。約6000年間に6回の大津波がきていることが分かりました。マグニチュード9クラスの地震による津波の跡でした。

1854年の安政大津波では、大阪市内が水没

1854年12月23日に起きた安政東海地震(東海・東南海地震)は、マグニチュード8.4だったそうです。

死者は、2,000~3,000人と言われます。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害がありました。ロシア船ディアナ号沈没。

翌12月24日には、安政南海地震が発生しマグニチュードは8.4でした。死者は、1,000~3,000人と言われます。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)を受けました。

大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流、道後温泉の湧出が数ヶ月間止まりました。

安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生しました。両地震による死者の合計は約3万人との説もあります。余震とみられる地震は9年間で3,000回近くあったようです。

12月26日には、豊予海峡で地震が起きマグニチュードは7.4でした。東海・南海と併せ、4日間で3つの巨大地震が発生しました。

安政大津波とは

名古屋大学の川崎準教授によると、御前崎では10mを越える津波が、高知の足摺岬まで津波の影響がありました。伊勢湾や大阪湾では4mを越える津波が押し寄せたようです。

大阪市内の道頓堀では、今でも海の香りがする時があるようです。

1707年の宝永地震では

1707年10月28日に起きた宝永地震(東海・南海・東南海連動型地震)は、マグニチュード8.4~8.7でした。死者は、2,800~2万人以上と言われます。倒潰・流出家屋6万~8万軒。

関東から九州までの太平洋岸に津波が来て、伊豆・伊勢・紀伊・阿波・土佐などで大きな被害を受けました。地震から49日後に富士山の宝永大噴火が起き、道後温泉の湧出が数ヶ月間止まったそうです。

宝永地震の建物被害

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院で、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。

宝永地震では、四天王寺本堂が倒れ、金堂は崩壊して微塵になったようです。3分ほど揺れ、液状化現象が起きたと考えられています。また、奈良の高い建物も壊れたそうです。

1361年の正平・康安地震では

1361年8月3日の正平・康安地震(南海地震)は、マグニチュード8.0~8.5でした。死者は多数。摂津・阿波・土佐で津波による大きな被害を受けました。

引き波は1時間以上かかったので、浜の近くの民は打ち上げられた魚や貝などを拾っていたそうです。そこへ、大津波がやってきて多くの人が犠牲になったようです。

マグニチュード9クラスの巨大地震が来たら、大阪の中心部にも津波が及ぶそうです。環状線の約西半分は津波に会うと言われています。梅田、難波も津波に会うと思った方が良いようです。

1498年の明応地震では

1498年9月20日の明応地震(東南海・東海地震)は、マグニチュード8.2~8.4でした。死者は3万~4万人以上と推定されています。

伊勢・駿河などで津波により大きな被害、浜名湖が海と繋がる、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流される。地質調査によればほぼ同時期に南海地震も発生。

地震の前には、松林を歩いて橋本宿に泊まっていた当時の旅人も、地震後には船で浜名湖を渡るようになり、橋本宿もなくなって離れた場所に宿を取るようになりました。

鎌倉大仏は、海から1km離れた場所にありました。波が仏閣僧坊をことごとく流したそうです。由比ガ浜では、溺死者が200人ほど出たようです。

大地震後に富士山が噴火

富士山は、4つのプレートの交わる場所にあります。マグニチュード9以上の地震が起きるとある程度の期間をおいてから、必ず噴火するようです。

1707年の宝永大噴火は、12月16日でした。宝永地震が10月28日でしたから、富士山の大噴火は約1ヶ月半後ということになります。江戸市中まで大量の火山灰を降下させた噴火でした。

今後の巨大地震によっては、富士山の山体崩壊も考えられるそうです。セントヘレンズ火山は、大噴火で400mも低くなったようです。

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更新日:2020/03/15