日光東照宮

日光は、日光東照宮、いろは坂、中禅寺湖、華厳の滝などの名所が多く、年間200万人が観光に訪れている名所です。ここは、1999年(平成11年)に世界遺産に登録されました。

特に日光東照宮は歴史の証であり、豪華絢爛な陽明門も見応えがあります。日光東照宮について、「ヒストリア」で詳しく説明していました。

日光東照宮とは

日光東照宮陽明門

徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日駿府城(静岡県静岡市)にて75歳で逝去し、直ちに久能山に神葬されました。

一年後の1617年(元和3年)4月15日、徳川家康の遺言により久能山から日光に移されました。

正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、東照社として鎮座しました。1645年(正保2年)に宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。

現在の主な社殿は、三代将軍徳川家光によって1636年(寛永13年)に造替されました。

徳川家康の遺言で作られた

徳川家康は死の2週間前に次のように遺言したと言われています。

「私が死んだら、まず、久能山に納め、神として祭るように。葬式は増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を立てよ。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧進せよ。関八州の鎮守となろう。」

豊臣秀吉も死後に京都の豊国神社に祀られ、神として崇められていました。徳川家康も、死後も神として人々に崇められたいという気持ちがあったに違いありません。また、将軍徳川秀忠の先祖は神様だということで、秀忠の地位を揺るぎないものにすることも考えていたと思います。

中国には天壇という、皇帝が天と交流する祭祀施設があります。秦の始皇帝のころは「帝」が北極星で、天帝あるいは皇帝を中心として世界がまわるという思想と実際の星座の動きが一致していたそうです。

北極星は宇宙の中心=天帝であり、天帝から選ばれたのが家康ということを知らしめるためとも言われています。

東照大権現となり、徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守る

そこで、日光東照宮楽天 も北極星の位置を考えて作られたようです。夜に日光東照宮を訪れ、陽明門を見ると正面の真上に北極星が位置するそうです。日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているようです。

駿府城の北に位置する久能山、江戸城の北に位置する日光、そして、久能山と日光を結ぶ線上に富士山があり、不死の山を超えると永遠のものがあるという信仰ではなかったかと、見られています。

家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」だそうです。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと言われます。北極星を背負っている陽明門がその象徴のようです。

日供祭(にっくさい)

日光東照宮では、開門前の8時前に日供祭(にっくさい)が行われます。東照大権現(家康)のために神饌、酒、米などが祀られます。東照大権現(家康)は、神として今も敬れています。

日光東照宮の歴史

徳川家康死後一年の1617年(元和3年)4月15日、徳川家康の遺言により久能山からご遺体が日光に神として移されました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、東照社として鎮座しました。遺言通り質素に作られました。

1634年(寛永11年)の9月頃、3代将軍、徳川家光が日光東照宮を参拝し、大規模改築(寛永の大造替)が、1636年(寛永13年)の21年神忌に向けて着手されました。

二代将軍徳川秀忠は、家康の遺言通りに日光に日光東照宮建てました。が、1643年(寛永20年)三代将軍家光は先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠造営の日光東照宮奥社(神廟=多宝塔・唐門・拝殿)や宝物を徳川氏発祥の地、世良田へ移築しました。

本殿は新築し、東照宮を完成させ、翌年10月11日には正遷宮が盛大に行なわれました。以後、大小15回による社殿の修復は幕府の財政により賄われて、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と俗謡を生んだそうです。

彫刻の謎

三代将軍徳川家光は、現代のお金で2000億円も使って、大規模改築(寛永の大造替)をしました。

江戸時代の狩野派を代表する絵師の狩野探幽(かのうたんゆう)、幕府大棟梁の甲良宗広(こうらむねひろ)達が力を注ぎました。

日光東照宮の建物に刻まれた彫刻は、総数5173体もあるそうです。そして、「人物」「霊獣・動物」「花鳥」「地紋」の4つに分類され、使われる場所にもルールがあるようです。

人物は、陽明門と唐門に限られ、霊獣の唐獅子は陽明門に、獏は本殿に集中しているそうです。

「魔除けの坂柱」は、門をくぐり抜ける左側の柱です。この柱だけが、グリ紋の向きが異なっています。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるので、未完成とし建物が長持ちするように願って作られたと考えられています。

家光が家康の恩に報いる

家光は、母・江や父・秀忠との人間関係がうまくいっていませんでした。両親は二男国松をかわいがっていました。祖父の家康は、将軍は長子相続が良いと思っていました。世の中を安定させ、跡継ぎ争いを避けるためでもありました。そんな親子関係の中で、家光は12歳で自殺を図ったこともあったそうです。

家光は29歳で将軍になりました。祖父家康のおかげで将軍になれたと恩を感じていたようです。また、家康の象徴となる東照宮を自らの権威の後ろ盾にしようとしたとも考えられています。

陽明門(国宝)

国宝の陽明門(ようめいもん)は、一日中見ていてもあきないことから「日暮らし門」とも呼ばれます。そして、陽明門は真南を向いて建っています。

陽明門という名前は、宮中(京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名をいただいたと伝えられています。江戸時代初期の彫刻・錺金具(かざりかなぐ)・工芸・装飾技術などが陽明門に集約されているそうです。

陽明門は、500以上の彫刻で飾ってあります。「東照大権現」の額の下には、「竜」、その下には、「息」が彫ってあります。額の両横には、麒麟があり、麒麟は徳のある王の世に姿を表すそうで、家康は徳のある王であったと示しています。

陽明門には、霊獣と呼ばれる想像上の動物が194体彫ってあります。

唐門(国宝)

陽明門をくぐると正面に国宝の唐門(からもん)があります。唐門は間口3m、奥行き2mの小さな門で、東照宮では最も重要な本社の正門です。

江戸時代には「御目見得(おめみえ)」(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名だけが使えたそうです。今でも唐門は、正月や大祭などの祭典の時と、国賓に相当する参拝者だけしか使えません。

唐門正面の上部には、「舜帝朝見の儀」の彫刻があり、家光も正しく将軍を継いだことを表しているそうです。古代中国の伝説上の皇帝、舜帝が残した「内平外成(ないへいがいせい)」の言葉から平成の元号が選ばれたようです。1本のケヤキに4列27人の人物が彫られています。

眠り猫(国宝)

眠り猫(国宝)は、東回廊の奥社の参道入り口にあります。左甚五郎の作と伝えられ、東照宮の中で最も有名な彫刻です。

眠り猫の真裏には竹に雀の彫刻があります。猫が起きていれば雀は食べられますが、東照宮では猫も居眠りして雀も安心して暮らせます。戦乱は治まり、平和な時代がやってきたことを表していると言われます。

三猿

神厩舎の彫刻は左から右へ「三猿の物語」になって、猿の一生を描きながら人の生き方を伝えています。

母と子の猿、子どものときは悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」一人立ち直前の猿、青雲の志の猿、悩む猿、恋に悩む猿、結婚した猿、子どもを宿した猿が彫られています。

家光が奉納した絵巻

家康の21回忌の様子を描いた物を奉納しました。そこには、家光が取り仕切る姿が描かれているそうです。1640年(寛永17年)に狩野探幽(かのうたんゆう)筆の東照宮縁起絵巻で国の重要文化財に指定されています。

家光の生涯

徳川家光は、1604年(慶長9年)7月17日江戸城で生まれました。祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられました。

家光の祖父は初代将軍・徳川家康、父は2代将軍・秀忠で、家光は秀忠の次男(嫡男)です。兄が早世したためです。母は浅井長政の娘江(ごう)で、織田信長の姪(母は織田信長の妹・お市の方)にあたります。

家光の乳母は春日局(福)でした。家光は、病弱で、吃音があり容姿も美麗とは言えなかったそうです。2年後に弟・国松(後の忠長)が誕生しました。国松は両親の寵愛を受けていました。

家光と忠長の間には世継ぎ争いが生じ、竹千代廃嫡の危機を感じた福が駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が「長幼の序」を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われています。

1632年(寛永9年)1月に秀忠が死去し、家光は29歳で将軍となりました。30歳代の家光には、難題が振りかかりました。熊本の大名・加藤家が家光を侮辱しました。そこで、家光は加藤家にまつわる48家を取り潰しました。

ポルトガルやスペインからはキリスト教が入って来ました。そして、島原の乱が起こりました。重税とキリシタン弾圧に抗議しての乱でした。12万の幕府軍との争いで両軍の4万人の死傷者が出ました。

寛永の飢饉が起き、農業政策にも力を注ぎました。1641年(寛永18年)には嫡男の竹千代(後の将軍家綱)が生まれました。病弱であった家光は、夢に家康が出てくるようになりました。そこで、その情景を絵にした物を20枚残させています。

家康が扇の上に小さな鶴を載せて、家光に渡しているという絵もあるようです。これは、長寿を表しているそうです。

家光は、参勤交代や中国・オランダとの鎖国を決め、200年続く太平の世の元を作ったと言われています。

そして、家光は48歳の生涯を終えました。大猷院(たいゆういん)に家光の霊廟があります。

徳川家康を崇める家光

家光は、1636年(寛永13年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯の内に10回も行っているそうです。

晩年、家光は度々家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその像を何度も描かせています。

そして、身につけていたお守り袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れていました。常に家康とのつながりを求め、尊崇していた証拠と見られています。

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更新日:2017/07/12