尾道千光寺公園
尾道千光寺公園は桜の名所です。高台にあり眼下に見下ろす桜や瀬戸内海、瀬戸内海に浮かぶ船、向かいの向島(むかいしま)の家並みもよく見えました。また、瀬戸内しまなみ海道で向島への橋である新尾道大橋、山陽本線の列車なども見渡すことができました。
尾道千光寺公園からの眺め
バスで尾道千光寺公園の駐車場まで登りました。そこから、急坂を歩いて登って展望台へ行きました。展望台から眼下を見下ろしました。2010年4月6日でしたが、今年は寒い日が続き、桜がまだ散らずに何とか待っていてくれました。
尾道楽天 千光寺公園は、ソメイヨシノや八重桜などが約1万本あるそうです。見渡す限りの桜を足すとそのぐらいあるのかもしれませんね。左の写真の橋が向島に架かる瀬戸内しまなみ海道の新尾道大橋です。
右の写真の中心部にある建物は、尾道市立美術館です。建築家・安藤忠雄氏の設計によるものです。
この頂上展望台は、尾道に来られたらぜひ立ち寄って欲しい場所です。また、ここから見る夜景は「夜景100選」にも選ばれています。
千光寺山ロープウェイ
尾道千光寺公園には、千光寺山ロープウェイで行くこともできます。長江口から千光寺山頂の間を運行しています。
運行時間は、9時~17時15分です。片道約3分で、15分ごとに運行されています。料金は大人片道280円、往復440円、こどもは半額です。休業日は2010年12月13日~17日となっています。問い合わせは、0848-22-4900へどうぞ。
尾道市立美術館
尾道市立美術館は、千光寺公園の中に建っていて、瀬戸内海を一望できます。国内外の著名な美術を展覧会をとおして紹介し、尾道ゆかりの美術の新たな発見にも努めているようです。
開館時間は、9時~17時(入館は16時30分まで)です。休館日は、月曜日、年末年始、展示替期間などです。観覧料は、一般300円、大・高校生200円、特別展は別に定められます。中学生以下、障害者、70歳以上は無料、20名以上は団体割引もあります。問い合わせは0848-23-2281へどうぞ。
千光寺本堂
806年(大同元年)に開かれたそうです。ここは、本堂の中を撮させてもらいました。朱塗りの本堂が華やかでした。ここからは、尾道の町が見渡せました。
まるで、眼下に暮らす人達を見守っているかのようでした。船の安全も守っているでしょう。真言宗のお寺で弘法大師の像も建立してありました。
千光寺のご本尊は、千手観音菩薩さまです。この菩薩様は33年に一度開帳される秘仏で、聖徳太子による御作と伝えられています。通称「火伏せの観音」とも呼ばれます。火事が起きた際に、この菩薩さまを一心に拝んだ所、火事がおさまったという言い伝えによるものです。
千光寺驚音楼
この千光寺驚音楼は、除夜の鐘で有名だそうです。普段は鐘をつくことは禁止されています。何かの非常事態につくことになっているようです。驚音楼という名前をつけたところが正にそうでしょう、という感じを受けました。
志賀直哉が「暗夜行路」の中でこの鐘のことについて書いています。
「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山の間に一寸頭を見せている百貫島の灯台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。」
志賀直哉は、大正元年の秋~翌3年の中頃まで、千光寺の中腹に住んでいました。今でも6畳と3畳に土間の台所だけの平屋三軒棟割長屋が残っています。
平山郁夫画伯の驚音楼の絵
これは、平山郁夫画伯が描かれた驚音楼です。この鐘の近くの壁にそっとはめ込まれていました。手前に紹介用の文字盤もありましたが、なかなか気づきにくいと思います。
平山郁夫画伯の平山郁夫美術館は、瀬戸内しまなみ海道を南下し、まず向島(むかいしま)、因島(いんのしま)、生口島(いくちじま)という島にあります。
平山郁夫画伯が尾道市瀬戸田町の出身だからです。東京芸大を出て大学に残り、助手~教授~学長に就任されました。学長は二度もされています。2009年12月に脳梗塞で79歳で逝去されました。平山郁夫画伯と言えば、シルクロードを旅する商人とラクダの絵を思い出します。広島の原爆に遭遇したこともかくしておられましたが、平和活動に熱心だったのは被爆という経験があったからだと思います。もっともっと長生きしてすばらしい作品をたくさん残していただきたかったと思います。
尾道と林芙美子(1903年~1951年)
林芙美子は、実父に認知されず母方の叔父の籍にに入ったそうです。その後大正5年、母と義父と芙美子の3人で尾道に住むようになりました。林芙美子は、尾道第二尋常小学校(現・土堂小学校)へ入り、成績も良かったことから尾道高等女学校を卒業しました。
母や義父の露天商を手伝い尾道や四国を点々としていた19歳の時からの日記が後の「放浪記」の原型となったそうです。
こどもの頃から貧しく苦労続きであった林芙美子は、原稿の売り込みもしました。人気作家になってからも原稿を断ることはせず書き続けました。その印税で中国、朝鮮、シベリア、バリ、ロンドンなどへ一人旅をしました。
林芙美子は、享年47歳という若すぎる死でしたが、生前色紙によく書いていた言葉は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」だそうです。一生懸命に人生を歩んで来て、自分が短命であろうと想像していたのかもしれません。
放浪記の一節(文学のこみち)
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ、緑色の海、向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。」
尾道千光寺公園の文学のこみち
千光寺公園の頂上展望台から千光寺までの間に「文学のこみち」があります。下り道のくねり道ですが、25個の石碑が建っています。
徳富蘇峰、正岡子規、十返舎一九、金田一京助、志賀直哉、林芙美子、緒方洪庵、山口誓子、松尾芭蕉、中村憲吉、吉井勇、頼山陽などの碑です。
この写真は、正岡子規の俳句で1895年、日清戦争従軍記者として尾道を通過した時の作品だそうです。「のどかさや 小山つづきに 塔二つ」と、刻まれています。二つの塔とは、西国寺の三重塔と天寧寺の海雲塔と言われています。