長崎と龍馬
長崎は坂本龍馬が亀山社中を作った場所です。亀山社中は後に海援隊となり、日本初の商社として有名です。
1867年、龍馬は33歳で京都近江屋の二階で午後9時すぎ刺客に襲撃されて死亡しました。若すぎる死でした。もしも生きていたら、その後の日本のあり方にどのように関わっていたのだろうかと思います。
坂本龍馬は、剣の道を究め、大きく時代が変わる時に遭遇して自分の心の内に従って師となる人を求め、その大きな器と人柄で人々を納得させて新しい時代を築く地盤を固めた人ではなかったでしょうか。偉大な功績と愛すべき人柄が坂本龍馬楽天 人気を不動のものにしています。
NHKのドラマ「龍馬伝」が始まってから、龍馬ゆかりの地は宣伝に大わらわのようです。龍馬の生地高知、亀山社中後のある長崎、京都や東京などの龍馬の足跡のある場所は今熱くなっています。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
本名は坂本龍馬ですが、司馬遼太郎は、フィクションとしての龍馬を書くので、あえて「竜馬」と書き表したそうです。
司馬遼太郎は、第二次世界大戦に遭遇し、国に失望しました。そして、歴史の陰に埋もれた人の人生を掘り起こそうとしました。明治政府の構想を考えた人、目先のことにこだわらない高い志、江戸城の無血開城に貢献した坂本龍馬に光りを当てました。
司馬遼太郎は、坂本龍馬に関する古本を神田の古本屋で求めました。少しでも記述のある物まで手に入れ、その数約3000冊、約1000万円も買ったそうです。
坂本龍馬像
この坂本龍馬像は、長崎の「ハタ揚げ」で有名な風頭公園にあります。台座部分1.8m、銅像本体3mの立像で坂本竜馬が愛した長崎港を向いて立っています。
昭和62年6月28日に発足した「龍馬の銅像建つうで会」が市民や企業、全国から集めた浄財で、平成元年5月21日に建立されました。
坂本龍馬は、1835年高知市の郷士、坂本長兵衛の次男として生まれました。12歳の時母・幸が病で亡くなりました。14歳の時小栗流剣術を学びます。19歳の時江戸に出て北辰一刀流・千葉道場へ入門しました。また、ペリーの黒船来航で江戸湾の警備につきました。21歳の時には父・八平直足が亡くなりました。
その後は、江戸に出たり、土佐に帰ったりと慌ただしく移動しています。いろんな人達と出会い、自分の師匠を捜していたように思います。28歳の時に勝海舟に出会ったあたりから、日本の将来を決める大きな渦に巻き込まれていったように思われます。29歳で海軍塾の塾頭となっています。
30歳で薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛と出会っています。31歳の時には、ここ長崎で亀山社中を設立しました。薩長和解にも尽力しました。32歳の時に京都寺田屋で遭難しましたが、お龍の機転で難を逃れ、お龍と結婚し、新婚旅行は薩摩へ行きました。
33歳の時海援隊の隊長となりました。後藤象二郎に「大政奉還」を勧め、10/13日には、「大政奉還」がおこなわれましたまた、「船中八策」を示しました。
大政奉還から1ヶ月もしないうちに、京都近江屋の二階で午後9時すぎ刺客に襲撃されて龍馬は死亡しました。若すぎる死でした。
亀山社中記念館
龍馬通り」とは、寺町の深崇寺と禅林寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園へ至る小路の名称です。
長崎らしい坂道・階段が続くこの歴史探訪路には手作りの案内板がたくさん設置されています。
1865年(慶応元年)に、坂本龍馬とその同士によって亀山社中は作られました。後には、海援隊となりました。同士とは、紀州、土佐などの脱藩浪人でした。
海運業、通商、商業活動や倒幕運動などにも加わって、幕末・維新にとって重要な役割をしました。
館内には、龍馬のブーツのレプリカ、書状の写し、海援隊士の写真などが展示されているようです。一般300円、開館時間は9時から17時、年中無休です。
読売新聞「古今をちこち」日本史家、磯田道史著から
磯田道史によると、坂本龍馬の功績とされている「船中八策」や「新政府綱領八策」は、すべて横井小楠・よこいしょうなん(1809~1869年)の受け売りと言います。
坂本龍馬に影響を与えた勝海舟は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と言っているそうです。それは、「氷川清話」に出ているようです。
横井小楠(熊本藩士でしたが、その見識を買われ、福井城主・松平春嶽に仕えました)は、わずかな情報から国の行くべき道を洞察する天才で、早くから開国は不可避と見たそうです。交易の利が新時代の成長戦略になると看破しました。井上毅(後に帝国憲法を起草)にそれを噛んで含めるように説明した「沼山対話」が残っているそうです。
また、西洋人が豊かで強いのは、蒸気船・機関車・電信機などの交通融通の便利のためだと言い、スエズ運河の経済的意義まで語っているそうです。さらに、世界情勢に通じた横井は「仏は論理を廃し、耶蘇(キリスト教)は論理を立てる」と言い、当然誤解されて斬られたそうです。
横井小楠(よこい しょうなん)は、熊本藩士、儒学者。正式名は平時存(たいら ときひろ/ときあり)。長男は同志社第3代総長で政治家の横井時雄。横井小楠は、新政府に参与として出仕していたが、京都市で暗殺されました。横井小楠が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしているとの疑いをかけられたようですが、これは事実無根のようです。
長崎眼鏡(めがね)橋
長崎眼鏡橋は、中島川という川にかかっている石造り2連アーチ橋のことです。水上の橋と水面に映った橋と合わせて見ると、めがねの形に見えることから、めがね橋と呼ばれています。
1634年興福寺の2代目住職、黙子如定(もくす)がかけたそうです。石造り2連アーチ橋は、珍しい物のようです。1連のアーチ橋はそこそこあるようですが。なぜか九州に石橋のみごとな物が多く残っているようです。技術を持っている石工さんがいたのでしょうか。
中島川には、通りごとに橋が架かっていました。近くには、長崎市民会館や福沢諭吉が19歳の時に蘭学を学んだという光永寺もありました。また、江崎べっ甲店では、緻密なべっ甲細工や現代風のモダンな装身具も見せて貰い目の保養になりました。
長崎ちゃんぽん・長崎皿うどん
昼食は長崎名物の長崎チャンポンと長崎皿うどんです。両方を二人でシェアしました。午前中、カステラ専門店を訪ね試食をたくさんしたので、お腹がすいていませんでした。で、この量なので食べ切るのが苦しかったです。
長崎ちゃんぽんの始まりは、明治中期に「四海楼」という中華料理店の初代店主が、当時たくさんいた中国人留学生(清国から来ていた)のために栄養があって安い料理を考え作った所からです。
肉、魚、貝類、野菜などをラードで炒め、豚骨と鶏ガラのスープ味で、太麺を入れて煮るようです。愛情のこもった味なのです。残さなくてよかったです。
写真の左側が長崎皿うどん、右側が長崎ちゃんぽんです。
また、長崎名物としてはカステラが一番有名です。カステラ店へ行きましたら、チーズ味、抹茶味、いちご味、はちみつ味、黒糖味、キャラメル味とあって驚きました。どの味も甘党にとっては美味でした。
*「龍馬暗殺」・・・誰が龍馬を暗殺したのかの検証、「坂本龍馬の仕事」・・・龍馬の功績などのページも合わせてお読みください。