写楽の謎
浮世絵で有名な写楽は、寛政6年(1794年)から翌年にかけての約10ヶ月の間に約145点の錦絵を出版した後、浮世絵の分野から忽然と姿を消しました。
写楽の本名、生没年、出生地などは長らく不明でした。が、2008年7月にギリシャのコレフ島で扇子に描かれた写楽の肉筆画が見つかり、そこから様々な人が写楽は一体誰なのかという解明が行われました。
NHKスペシャル「写楽・天才絵師の正体 謎を解明!」は、見応えのある作品でした。
写楽の肉筆画が見つかった
写楽は18世紀末、江戸にデビューしました。2日に1枚の役者絵を描き、約145点となっています。が、10ヶ月後には、忽然と消えてしまいました。
本名も分からず、どこの誰かも全く分からず、「写楽の謎」と言われてきました。
しかし、2008年7月にギリシャのコレフ島で扇子に描かれた写楽の肉筆画が見つかり、そこから、多くの謎を解く鍵が見つかりました。
日本では、写楽の絵は全てが版画という形で、肉筆画はありませんでした。版画になると彫り師の線に変わってしまい、絵師独自の筆遣いは消えてしまいます。
写楽楽天 の肉筆画が見つかったことで、写楽独自の色遣い、筆遣いを知ることができ、いきいきと深みを帯びて写楽がせまったきました。
そこで、写楽研究家、浮世絵研究家、日本画家の人達が肉筆画について研究を始めました。
肉筆画が本物(写楽が描いた)である理由
- 耳の描き方
- 発見された肉筆画は、四代目松本幸四郎が描かれていました。版画と比べると耳の描き方が、同じく5本の線で描かれていたそうです。本人が自覚しないうちにその人の癖が出ていたのです。
- 描かれた内容
- 通常描かれない仮名手本忠臣蔵の一場面でした。描かれた忠臣蔵2000本の中でも、この絵の場面を描いた物は他にないそうです。この肉筆画が偽物なら、わざわざ特異な場面を描くはずがありません。
- 松本幸四郎の顔
- 版画に描かれた松本幸四郎と肉筆画の顔が似ています。
写楽の正体は?
写楽の正体に関して、今までに3つの説があったそうです。
- 阿波藩の能役者であった斉藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1763年?~1820年?)・・・写楽が消えた50年後の書物に書かれていたそうです。
- 有名絵師説・・・北斎・・・生涯30回も名前を変えていたので、写楽と名乗ったかもしれない。歌麿・・・力士を描いた顔が似ている。その他歌川豊国など10人を超えています。
- 版元の蔦谷重三郎説・・・写楽の145点の絵が全て蔦谷から出されているからです。
写楽の正体は有名絵師か
肉質画から分かったことは、写楽の筆遣い、写楽の線は、ブツブツととぎれて乱れているように見えるということです。
筆に墨を含ませ、筆を上下運動をさせながら少しずつ進んで行くという描き方なのです。全体でみれば味のある線ということになります。
北斎の肉筆は、巧みで伸びやかで写楽の絵とは全く異なります。
歌麿の肉筆は、繊細な線が長く引かれています。
丸山応挙の線は、柔らかです。
そうして調べていくと、有名絵師の中には、写楽の肉筆画と同じ線を持つ人はいなかったそうです。
写楽の正体は版元の蔦谷重三郎か
三重県津市で昭和9年に写楽作であると言われる、扇子に描かれた肉筆画が見つかりました。しかし、当時写楽の肉筆画がなかったために、本当に写楽の作かどうか分からずにいました。
ギリシャで見つかった肉筆画と比べると、その線により本物と分かりました。また、描かれている歌舞伎の絵から、歌舞伎の上演記録を調べると、寛政12年より後に描かれたことになりました。
この3年前に版元の蔦谷重三郎は亡くなっていましたから、版元の蔦谷重三郎は、写楽ではありませんでした。
写楽は阿波藩の能役者、斉藤十郎兵衛
写楽が消えた50年後の書物に書かれていた通り、写楽は阿波藩の能役者、斉藤十郎兵衛が正解だそうです。
- 能役者がなぜ浮世絵を出版できたのか
- 斉藤家の菩提寺の過去帳によると、東京八丁堀の地蔵橋に家があったようです。写楽38歳の時です。その家の4軒先に国学者・加藤千景が住んでいました。国学者加藤は、同じ国学者・本居宣長と懇意にしていました。本居宣長は、蔦谷重三郎と面識がありました。そんな関係から、斉藤十郎兵衛と蔦谷重三郎が結びついたと考えられています。
- 能役者とは
- その時代の能役者は、武士の位でした。武士は二つの仕事を持つことはできませんでした。浮世絵を描くことは、禁制を破ることになりました。禁制を破り殺された人もいるようです。だから、写楽の秘密はしっかりと守られ、なかなか写楽の正体が分からないことに繋がったと言えます。また、斉藤十郎兵衛は能役者としては、「ワキツレ」という役で、片隅に座っていて台詞も殆ど無く、存在感を消していなければならなかったそうです。厳しい世襲制があった時代に、才能に溢れていたであろう斉藤十郎兵衛は、もんもんとし何か表現せざるを得なかったのではと思われます。
- 東洲斎写楽という名前の由来?
- 斉藤十郎兵衛を分解し、並び替えると、籐・十郎・斉で東洲斎とし、写楽で絵を写し楽しむという名前にしたと考えられるそうです。こうしてみると、もう完璧という感じですね。どこかに、本当の自分を残しておきたいという気持ち、分かりますね。特に能役者という仕事の上で、自分の能力を十分に発揮できなかった斉藤十郎兵衛としては、東洲斎写楽という名前は、大切なものだったと思います。
なぜ、写楽は10ヶ月で去ったか
写楽は歌舞伎の端役の人も描いていたそうです。歌舞伎を見に行けない高貴な方に配る物として作ったとか、いろんな説があるようです。
写楽の絵は、1期から4期へと変貌する
- 1期
- 歌舞伎役者の大首絵・・・28点あり、紙質も良く、雲母なども使って豪華に仕上げてあるそうです。
- 2期
- 2ヶ月後から役者絵が、全身像へと変化します。38点あり、薄い紙が使われました。
- 3期
- 4ヶ月後、全身像に背景も描かれるようになりました。58点あります。安い紙で大量出版されたようです。
- 4期
- 10ヶ月後、ありきたりの役者絵になりました。薄利多売をしようと思う蔦谷の強い意向だったのではと推察されています。
1期の写楽の大首絵は、歌舞伎役者の芸の瞬間をうまく表現した味のあるものでした。しかし、その個性的な表現を役者や役者ファンは嫌ったようです。役者ファンには、役者の個性は必要なかったようです。ただ、美しく描いてくれればそれでいいという具合だったのでしょう。
絵も売れなくなり、個性も表現できずで、斉藤十郎兵衛は描かなくなったと思われます。
出版されなかった版下絵
写楽の出版されなかった版下絵が9枚残されています。これは、自分のための絵だったといわれます。
空想の役者絵で、写楽が想像した夢の舞台で、共演するはずのない役者が共演していたりします。
歌舞伎と能、違ってはいても、舞台の上で体を使って表現するものです。才能のあった斉藤十郎兵衛・写楽は、夢の舞台を作りあげて、楽しんで描いていたのですね。
約200年後のこの時代になってやっと写楽の正体が分かり、斉藤十郎兵衛を理解してもらえたことで、写楽ともども喜んでおられると思いました。
また、肉筆画1枚から、写楽の正体が分かるとは、今までの研究と様々な分野から迫ったことで解明されたのだと思います。
壮大なドラマを見たように、しばらくは写楽の世界に浸りたいと思います。