坂本龍馬の仕事・生き様

2010年6月29日の「大河ドラマでは描かない坂本龍馬の真実!わずか2000日で世界を変えた男ー史実を基に本当の龍馬を完全再現」というテレビ番組を中心にまとめてみました。

しかし、私も家事をしながら見た箇所もあり、完全ではありませんことをお詫びします。

龍馬の日本を守るという強い意志に支えられた功績を伝えられたらと思います。

5年で世界を変えた男、坂本龍馬

1867年11月15日で亡くなるまでの28歳から33歳までの5年間で41000Kmを移動し、勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、トーマス・グラバーなどを動かして日本を戦争(内戦)から回避し、世界からの属国となることも回避させてくれた坂本龍馬は、本当に日本の恩人と言わなければならないと思います。

そして、日本史家・磯田道史氏によると、坂本龍馬の功績とされている「船中八策」や「新政府綱領八策」は、すべて横井小楠・よこいしょうなん(1809~1869年)の受け売りと言います。

受け売りにしても、それをみんなに命をかけて納得させ実行させた坂本龍馬は、情熱の固まり、強い信念の持ち主であり、みんなが坂本龍馬楽天 の人間としての魅力に引きつけられてしまうような人だった、と思いました。

岩崎弥太郎が、ドラマの中でも坂本龍馬に「この人たらし」と言っています。人間坂本龍馬は、誰からも愛されるような誰をも引きつけるような、真っ直ぐなところがあったと思います。

幕末の尊皇攘夷運動

尊皇攘夷とは天皇を尊び外国を撃退するという考え方で、攘ははらう、夷は外国人と言う意味です。

当初は水戸藩が尊王攘夷の中心でしたが、次第に長州藩の下級武士を中心として広まっていきました。当時、朱子学や水戸学の学問の影響で「尊皇」という思想が大名から一般庶民まで幅広く広まっていたそうです。

幕府や新撰組は、幕府の力で尊王攘夷を決行しようと考えていました。幕府の対外政策に対する不満から、幕府に失望し、京都の朝廷の権力が一気に高められたようです。

長州藩は幕府の考えに反対し、次第に倒幕の意志を高めていきました。薩摩藩は、当初は幕府の考えに同調していましたが、やがて長州藩と共に倒幕を目指すことになります。

倒幕運動へ発展

幕府の大老・井伊直弼が行った安政の大獄や公武合体政策によって、尊王攘夷はますます激しくなっていきました。

安政の大獄
1858年~1859年(安政5~6年)大老井伊直弼は、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。徳川家茂を将軍継嗣に決定。この策に対して反対する人々を弾圧しました。一橋派の大名や公家、志士の人たちです。死刑や獄死した人には、長州藩の吉田松陰、越前の橋本左内、水戸藩家老などが有名です。隠居・謹慎などでは、一橋慶喜、、松平春嶽、山内容堂などがいます。
公武合体政策
幕府は井伊大老が行なった朝廷を無視した政治を反省し、政治方針を一大転換して、朝廷と幕府が一体となって政治を行なおうとする「公武合体政策」を表看板に掲げて運動しました。公武合体政策で尊皇攘夷運動を緩和しようとしました。14代将軍・徳川家茂と和宮(孝明天皇の妹)が婚姻した和宮降嫁(かずのみやこうか)もこの公武合体政策の一つです。

土佐勤王党・武市半平太

土佐における尊皇攘夷運動の中心的役割を果たすことを目的に、当時江戸にいた武市半平太によって土佐勤王党が結成されました。

約200人の人々が集まりましたが、武市半平太が下級武士だったためにほとんどが下級武士や浪人や農民が中心でした。当時の藩政を握っていた上士(じょうし)の参加はなかったようです。

坂本龍馬は、武市の推し進める考えとは相容れず、かなり早い段階で辞めてしまいました。過激で急進的な武市の尊皇攘夷運動に疑問を持ったのでした。

土佐藩は身分差別が激しく、また徳川幕府への強い恩恵の念がある土佐での尊皇攘夷運動は容易ではありませんでした。遅々としてすすまない尊皇攘夷運動をすすめるために武市は、土佐藩参政・吉田東洋を暗殺(1862.5.6)。1862年8月、土佐勤王党は京都で尊王攘夷運動の中心となり、武市は他藩応接役を任じられ、各藩との交渉や朝廷工作を積極的に行いました。

1863年土佐勤王党は青蓮宮に令旨を請い藩政改革を迫りましたが、山内容堂に密告されもくろみが失敗。平井、間崎、弘瀬の三名は投獄され、武市の懸命の助命嘆願もむなしく、6月切腹となりました。

吉田東洋を重用していた前藩主・山内容堂は、謹慎を解かれ藩政に復帰しました。尊王攘夷派が全国的に衰退し、代わって公武合体派が勢力を強めると、土佐勤王党は土佐藩内でもその行き場を失いました。容堂は東洋を暗殺した土佐勤王党を徹底的に弾圧し、武市を筆頭に土佐に戻った土佐勤王党の主要メンバーは軒なみ投獄されました。

武市は上士扱いで拷問は受けなかったものの、劣悪な獄中環境で体調を崩し、他の志士達は死を前提とした過酷な拷問を受け続けました。

清岡道之助ら23人は、元治元年(1864年)7月に武市の釈放を求めて北川村野根山に集まりましたが、全員捕らえられ斬首されました。

この弾圧により尊王攘夷派の大半を失った土佐藩は、この後京都において再び尊王攘夷派が勢力を盛り返し、これら尊王攘夷派の力によって維新がなった後の新政府内で、自身の立場に大変苦労し、武市ら土佐勤王党を弾圧したことを後悔したそうです。

坂本龍馬・土佐藩脱藩

1862年3月24日、坂本龍馬は土佐藩を脱藩しました。当時脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになりました。

吉村虎太郎が萩を訪問した際に薩摩藩島津久光の上洛に便乗する挙兵計画を知り、これに加わるために宮地宜蔵や沢村惣之丞らと共に土佐を脱藩したました。数日後に坂本龍馬も脱藩しました。

坂本龍馬と沢村は、下関の豪商・白石正一郎を訪ねたようです。吉村は一人京都へ向かい、4月23日の寺田屋事件の最中に捕まり、土佐藩へ送還されました。

坂本龍馬は、沢村と別れて薩摩藩の動静を探るために九州へ向かったとされています。が、資料がないようです。

4月8日、土佐藩の吉田東洋が暗殺されました。坂本龍馬は、望月清平から、自分が吉田東洋の暗殺の容疑者となっていることを知らされました。

坂本龍馬と勝海舟と神戸海軍操練所

坂本龍馬は幕府の人間に会いたいと思っていました。1862年8月江戸の小千葉道場に寄宿していました。この時期に長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作、土佐藩同士と交流しています。

12月5日、幕府政事総裁職の前福井藩主松平春嶽に拝謁しています。松平春嶽は、誰彼の区別なく人の意見を聞いてくれる人として有名でした。

松平春嶽の政治顧問として熊本藩の横井小楠が招かれ、福井藩の藩政改革、幕政改革に力を注ぎました。(横井小楠は、新政府の参与となりましたが、1869年61歳の時に十津川郷士に暗殺されました。横井が開国を進め日本をキリスト教化しようとしているという事実無根の理由からでした)

松平春嶽の紹介で幕府軍艦奉行並の勝海舟に会うことになります。龍馬は勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれ大いに感服し、弟子になりました。龍馬は姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛しています。

勝海舟は、世界は広いぞ、国に命を捧げるつもりで、家茂様にも政権の返還をすすめるつもりだと、言っています。

1863年2月25日、勝海舟は、山内容堂にとりなして龍馬の脱藩の罪は赦免されました。また、土佐藩士が勝海舟の私塾に入門することも認めさせました。

4月23日、14代将軍徳川家茂から神戸海軍操練所の設立の許可と勝海舟の神戸海軍塾の開設も認められました。幕府からの3000両だけでは資金不足なので、龍馬は福井藩の松平春嶽から1000両を借りて来ました。

4月土佐藩では、山内容堂が土佐勤王党の粛清を始めました。その頃長州藩は米仏軍艦と交戦し負け戦となっていました。龍馬は日本の危機を実感していました。

8月には薩摩藩と会津藩が協力して、討幕運動の中心となっていた長州藩の一網打尽作戦を実行しました。9月土佐藩では武市半平太が投獄され1年半後に切腹を命じられました。

10月には龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられました。土佐藩からの帰国命令を無視し再び脱藩しました。

2月9日、勝海舟と龍馬は、長州藩の開門海峡封鎖の調整のために長崎へ行きました。その時に龍馬は熊本の横井小楠を訪ねています。

6月15日、京都で池田屋事件が起きました。池田屋には、尊王攘夷派が集まっていました。そこを新撰組が襲いました。龍馬の隠れ家も襲撃されました。

5月、龍馬は伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、寺田屋の女将お登勢に預けました。8月1日には二人は内祝言を挙げています。

5月14日、神戸海軍操練所が発足。6月17日、下田の勝海舟と会合を持ち、龍馬は約200人の人を集めて蝦夷地の開拓や通商に送り込む構想を話しています。

8月中旬、勝の紹介で、薩摩藩の西郷隆盛に面会しました。西郷隆盛は、諸藩が力を合わせて連合政府を作ろうという考えを持っていたようです。

池田屋事件で神戸海軍塾生の望月亀弥太が殺された件、禁門の変で神戸海軍塾生の安岡金馬が長州軍に参加していた件で、神戸海軍操練所は幕府から問題視されていました。その上、勝海舟が老中・阿部正外の不興を買ったことで、11月10日には軍艦奉行を罷免されました。結局、1865年3月18日神戸海軍操練所は廃止になりました。

その際、勝海舟は、塾生の行く末をあんじ、薩摩藩の家老・小松帯刀に塾生の庇護を依頼しています。

冬~1865年春までの4ヶ月間の坂本龍馬の資料がないそうです。この間に龍馬は、長崎を訪ねトーマス・グラバー(英国人)のところで、商売の仕方やイギリスの議会について学んだのではなかろうかということです。この2年前に勝海舟とともにトーマ・グラバーに会ったことがありました。   

亀山社中

脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎に行きました。そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。

亀山社中とは、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせた意味です。

亀山社中の最大の業績は、1866年長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬したことです。それが慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなりました。

薩長同盟

慶応2年、1866年1月8日、京都小松帯刀の屋敷で桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれました。1月20日、龍馬が下関から京都へ到着してもまた、盟約が成立していませんでした。薩長同盟の盟約は、 慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都二本松薩摩藩邸で締結された。

桂小五郎は、坂本龍馬に薩長盟約履行の裏書きを要求しています。一介の素浪人である龍馬がいかに信頼を得ていたかが、わかります。桂小五郎は、西郷にも言っています。「西郷さん、坂本龍馬を信じたからこそ、ここに居られるんじゃあないですか」と。

薩長盟約は1~5までは、戦に関することでした。6番目は、薩長両藩は、誠の心を持って合体し、日本の傾きかけた国を立て直すために、粉骨砕身尽力することを書き加えたそうです。これは、今までに天下・国家のために消えたたくさんの命の分までも背負ってという意味だそうです。

龍馬は、武市半平太、土佐勤王党の仲間、近藤長次郎などを亡くし、桂小五郎は、騎兵隊の高杉晋作や多くの長州藩士の仲間を失っていました。

1月23日、寺田屋(伏見区)へ戻り祝杯を挙げていた龍馬は、伏見奉行から襲撃を受けました。この時にお風呂に入っていたお龍が、機転を利かして龍馬に伝えたことから、龍馬はお龍のことを命の恩人と言っています。後に二人は夫婦になります。

龍馬は高杉晋作からもらっていた拳銃を発砲し、命からがら逃げました。龍馬は両手指を切られ、左手人差し指は曲がらなくなりました。龍馬は薩摩藩に救出されました。

西郷隆盛のすすめで、薩摩藩の霧島温泉で療養することになり、お龍を伴って京都を出発、日本初の新婚旅行と言われています。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留しました。

6月幕府は、第二次長州征伐を開始、龍馬は6月16日オニオン号に乗って下関に寄港し、高杉晋作とともに戦いました。龍馬にとっては、最初で最後の実戦経験でした。長州軍は連戦連勝しました。

徳川家茂はそんな中、7月20日に21歳の若さで亡くなりました。勝海舟が長州藩と9月19日に談判し、幕府は撤兵しました。 

海援隊

海援隊は、土佐藩の援助を受けて、土佐藩を「薩摩藩・長州藩と結びつける」、「大政奉還を成し遂げる」と言う二つの目的を持っていました。

坂本龍馬は、高杉晋作が身分の差がなく騎兵隊を率いていたことに感動しました。農民や大工、商人、武士など、誰でも自分から日本を変えようと思った人を騎兵隊に入れていたからでした。これからの日本はこうあるべき、という信念を持ったようです。

5月1日、亀山社中は、薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難し、土佐脱藩者12名が亡くなりました。ユニオン号も長州藩へ引き渡し、亀山社中には船が無くなりました。

10月薩摩藩は、帆船大極丸を亀山社中に与えました。この頃龍馬は政権奉還論を説いていたようです。

土佐勤王党を弾圧した土佐藩は、軍備強化を進めていました。参政の後藤象二郎が長崎で武器弾薬を集めていました。後藤は、航海・通商・薩長との関係も深い坂本龍馬の脱藩を赦免し、土佐藩の外郭団体としての「海援隊(亀山社中改め)」を作ることにしました。

この時期、土佐藩では、中岡慎太郎が「陸援隊」を結成しました。中岡は、あくまでも力による倒幕を目指していました。龍馬は中岡と共に手立ては違うが、目指す物は同じなので、徳川幕府を終わらせ日本の新しいしくみを作ろうと誓いました。

4月23日、海援隊の蒸気船「いろは丸」が紀州藩船「明光丸」と衝突し、いろは丸が沈没しました。龍馬は万国公法に基づいて、紀州藩の過失を追求し、ミニエー銃400丁、金塊、陶器などの賠償金を8万3526両を紀州藩から支払ってもらいました。

海援隊の経済状況は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎の元へたびたびお金の無心に行っていたようです。

船中八策と大政奉還

船中八策
1867年6月9日、龍馬と後藤象二郎は、土佐藩船・夕顔丸に乗り、長崎から兵庫へと向かっていました。京都では、山内容堂が四候会議(島津久光、伊達宗城、松平春獄)が開かれていました。後藤はそこへ呼ばれていました。龍馬は船上で政治綱領を書いて、後藤に渡しました。八項目からなるので、船中八策と呼ばれています。これは、横井小楠の「国是七条」を原案にしていて、後の新政府の綱領の原本となった物です。また、龍馬は「船中八策」は、今までに出会った、横井小楠や久坂玄瑞(長州藩士、蛤御門の変で自刃、享年25歳)や勝海舟や河田小龍などから学んだことの集大成であったと、ドラマでは語っています。
大政奉還
薩摩藩は船中八策に基づいて王政復古を目的とする薩土芸盟約を成立させましたが、9月7日には薩土盟約は解消されています。9月23日龍馬は5年ぶりに故郷へ帰り、家族に再会しました。10月3日、後藤は二条城に登城し老中・板倉勝静に王政復古の建白書を提出しました。10月13日将軍徳川慶喜はすでに決断しており、15日には大政奉還となりました。
倒幕の密勅
10月14日には、岩倉具視を動かして、帝の詔勅をもらい、薩摩藩と長州藩へ倒幕の密勅が出されていました。しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられています。

坂本龍馬暗殺される

11月15日、近江屋(河原町の醤油屋)の母屋の二階で龍馬と中岡慎太郎は飲んでいました。午後8時頃、十津川の郷士と名乗る2、3名の者が来て、二人に斬りかかりました。龍馬は刀をお床に置いていて、額を深く切られて絶命しました。中岡は17日に死亡し、その間意識があったので事件について多くの証言残したそうです。

龍馬の敵は多く、誰が龍馬を殺したかは、今まだ謎のままです。しかし、いろんな資料から、会津藩の命令による見回り組のしわざではないかという見方が有力になっています。 

日本史家・磯田道史氏の「龍馬史」

2010年9月、磯田道史氏は「龍馬史」という本を出されたようです。その中で1867年11月15日の龍馬が暗殺された日の直前の政治情勢を詳しく書いておけばよかったと言われています。

「丁卯日記(ていぼうにっき)」と言う、福井藩士、中根雪江の日記が、当時の政治状況を雄弁に語っているそうです。

中根は、11月15日に幕府高官・永井尚志・なおゆき(玄蕃・げんば)と面談しています。龍馬は暗殺直前、頻繁に永井と会って交渉したそうです。龍馬は「おれは永井玄蕃と会津肥後の守(松平容保・かたもり)と会った。今は何も心配することなし安心せよと言われた。だから殺される心配はない」と周囲に語っていたと言う。

11月10日、中根は老中・板倉勝静に会った。板倉は大政奉還を悔しがり「なにぶん口惜しいこととなった。余りに口惜しいので永井と相談したが、良策もない。何とか致し方はないか」中根は「それは死したる子の齢を数えるようなもの。慶喜公の徳を傷つけるから決して左様の儀は口外めさるな」と諫めています。

11日には、幕府奥祐筆・渋沢成一郎が「徳川御三家と親藩の兵力さえあれば政権の取り戻しもある」と主張し、尾張徳川家などに出兵要請していました。

中根は14日の薩摩藩士・吉井幸輔に面会しました。吉井は「慶喜公の御腹心にて実に政権に執着これなきは永井ばかり。老中板倉以下には必ず復古の臆念がある。早く新政府の大綱領を定、それに背く者は討って取る外ない。明日15日には薩摩の小松帯刀土佐の後藤象二郎と同伴してこちらに着くはず」と言いました。

11月中旬、新政府樹立に向けた薩土の共同作戦で、龍馬は大綱領を書いていました。薩土の動きを封じるために幕府復権派は龍馬を早めに殺す必要があったと磯田道史氏は書かれています。

15日中根は、会津藩士・小野権之丞と居合わせました。その発言から、会津藩の幕府復権論の根強さを痛感。「小野も復権派か、会津藩でよくわかり居るのは手代木直右衛門・てしろぎすぐえもん、外島機兵衛・としまきへえの両人なり。しかしながらこれも小野と同じ塩梅。昔から佐幕の藩風だから難しい」と永井は言っています。

また、永井は「龍馬の説は高大で面白い」とも言っています。

中根と永井がこの会話を交わしているその夜に龍馬は襲われたそうです。

龍馬暗殺の黒幕は誰か。昨年12月の「古今おちこち」では、磯田道史氏は会津肥後の守(松平容保・かたもり)と桑名藩主・松平定敬・さだあきの二人に絞り込んだそうですが、ここに来て、会津藩・松平容保の側近の手代木直右衛門、小野権之丞、外島機兵衛ら会津藩の公用方の動きが気になると磯田道史氏書かれています。

龍馬が望んだ、無血で行われた大政奉還ですが、日本国中の仕組みが一大変換をなすときに、有り余ったエネルギーがやり場を失い、大政奉還に尽力し、新政府の綱領までも作っている龍馬に襲いかかって来ました。

龍馬が、新政府に残っていたらどんな仕事をしていてくれたでしょう。大変な人材を日本は失ってしまいました。でも、日本は坂本龍馬のお陰で、外国に支配されることなく独立国として歩んでいけることになりました。そのことを感謝したいと思います。

*「龍馬暗殺」「長崎と龍馬」のページも合わせてお読みください。

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更新日:2020/03/15