龍馬と中岡慎太郎

坂本龍馬は33歳の時(慶応3年11月15日)、京都近江屋の二階で午後9時すぎ刺客に襲撃されて死亡しました。その時、中岡慎太郎(30歳)も同席していたために致命傷を受け、2日後に亡くなりました。二人は同じ土佐藩で、龍馬は海援隊、中岡は陸援隊を率いていました。

二人は、同郷、同年代、最後も一緒であったのですが、正反対の性格だったようです。NHKの歴史秘話ヒストリアを見ましたので、まとめてみました。

二人の故郷は土佐

土佐の人は、陽気、豪快、海の国というイメージがあります。が、森林も多く高知県の84%を占め、日本で一番だそうです。

中岡慎太郎
中岡慎太郎は、土佐の東部の北川村で1838年、大庄屋の長男として生まれました。田を整え、杉の植林、ゆずの栽培なども行っていました。中岡慎太郎は、農民の苦労を目の当たりにし、民が苦しむ世の中を変えたいと思っていました。
18歳で高知城下へ剣術修行に出て、武市半平太の塾へ通いました。そこで、武市半平太(たけちはんぺいた)の友人で、中岡慎太郎より3歳年上の龍馬と出会いました。
坂本龍馬
坂本龍馬楽天 は、高知城の近くの商家で裕福な家に生まれ、5人兄弟の末っ子でした。長男がいたので、後を継ぐこともなく、自由に過ごしていました。
坂本龍馬と中岡慎太郎の比較
名前 坂本龍馬 中岡慎太郎
身長 173cm 153cm
得意なこと 勉強
結婚 30歳で恋愛結婚 20歳で父親の決めた
15歳の娘と結婚
柿の食べ方 種を吐き出しながら、
むしゃむしゃ食べた
うやうやしく「いただきます」
「ごちそうになりました」と言う

二人の挫折・それぞれの危機

中岡慎太郎
中岡慎太郎は、武市半平太が、幕府に代わって天皇を中心とする世の中をつくろうとする「土佐勤皇党」に入りました。300名余りが入りました。江戸や京都を中心に活躍し、武市は朝廷に近づいて、幕府に対抗しようとしました。しかし、1863年、土佐藩での尊皇攘夷活動の大弾圧が始まると、中岡慎太郎は土佐藩を脱藩し9月に長州へ亡命しました。その後は長州藩で働きました。
坂本龍馬
坂本龍馬は、1862年3月24日に土佐藩を脱藩し、江戸へ出て勝海舟へ弟子入りしていました。勝海舟の元で、神戸海軍操練所の設立に尽力しました。が、1864年10月22日に海舟が江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまいました。そして、慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止となりました。坂本龍馬は、その後薩摩藩の助けを借りて、「亀山社中」を作りました。

薩摩藩と長州藩を結びつける・薩長同盟へ

中岡慎太郎
1864年、石川誠之助と名乗り京都へ。薩摩藩の島津久光の暗殺を画策したが果たせず。禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷しました。長州藩の志士達への弾圧を目の当たりにして、尊皇攘夷から武力倒幕へと考えが変わったようです。それから、倒幕のためには、薩長の同盟が必要と感じ、薩摩と長州の間を取り持つために、奔走しました。海援隊の龍馬なども巻き込んで、1866年3月2日、京都、二本松薩摩藩邸で薩長同盟を成し遂げました。
坂本龍馬
亀山社中の成立は、商業活動で利益を上げることと、当時、反目していた薩長両藩の和解の目的が含まれていました。幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを禁止していましたから、長州藩は兵器の導入が難しくなっていました。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していました。そこで、龍馬は薩摩藩名義で武器を調達し、密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ米を回送する策を提案しました。これが、亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功しました。これが、薩長和解の最初のきっかけとなりました。1866年1月8日、京都の小松帯刀邸で、桂と西郷の会談を行いましたが、まとまらず、12月20日、龍馬が到着し、未だ盟約でできていず驚きました。桂に聞くと、これ以上頭は下げられずと答えました。そこで、夜に龍馬は西郷と話しをし、1月22日には、薩長盟約が結ばれました。

その頃の二人の様子を鳥取藩の人が書いていたそうですが、中岡と龍馬の関係は殺伐としていたそうです。

海援隊と陸援隊

陸援隊(中岡慎太郎)
7月、長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を本格的に組織し始め、中岡は自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定めました。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著しました。
海援隊(坂本龍馬)
翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談しました。その結果、土佐藩は龍馬や中岡らの脱藩をゆるし、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まりました。これを機に4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称しました。

近江屋で暗殺される

龍馬は無事に大政奉還も終わったので、中岡や土佐藩の人たちを京都河原町の近江屋へ呼びました。シャモ鍋を囲もうというわけです。

慶応3年(1867)11月15日、龍馬の33歳の誕生日でした。突然の襲撃を受け、即死の状態でした。

中岡もたくさん切られて、2日後の17日に亡くなりました。誰が暗殺したのかわかりません。しかし、今ではたくさんの資料から、見廻り組の可能性が一番高いのではと見られています。幕府方の会津藩の関係からの指図ではと見られているようです。

龍馬、最後の言葉

龍馬と親しかった土佐藩の徒目付(かちめつけ)の樋口真吉(1815?1870)が、龍馬が暗殺された様子を日記「日新録」に書き残していたことが分かりました。

この日記は、高知県四万十市立郷土資料館の所蔵で11月30日まで公開中です。

龍馬のことは「才谷梅太郎」、中岡のことは「横山勘蔵」と身元を隠すための変名で書いています。

四ツ・午後10時頃、龍馬の身の回りの世話をしていた藤吉が持ってきた「度津川人・奈良県十津川村の人の手紙」を2人が灯火に照らして読んでいた時、突然賊二人が切りつけてきたと詳述しています。

中岡は、刀を隣室においていたので、短刀を抜いて応戦したが、頭を切られ、賊の足に組み付いたところを刺されました。

龍馬は、刀を取る暇なく、賊のためにたおさると、書いています。賊は逃げる藤吉を後ろから切り、「これにてよし」と言って去ったと書いています。最後に龍馬は、立ち上がって抜いた刀を灯火に照らし「横山兄如何」と言って息絶えた、と鮮明に描写しています。中岡のことを心配して亡くなったのですね。龍馬らしいと思いました。

日記は、1974年に同資料館に寄贈され、幕末の資料を集める高知県佐川町立青山文庫の前館長、松岡司さんが鑑定していました。松岡さんは「樋口は当時、事件処理もしており、一線の捜査員として現場に駆けつけ、状況を聞き取った可能性もある。冷静だが、リアルな描写だ」と話しています。

樋口は剣豪で知られ、当時は下級役人・徒目付けとして他藩の動きを内偵。龍馬が脱藩した頃は金を与え、竜馬も隠れ家の世話を頼むほど信頼した人物とされています。2010.11.24読売新聞から

二人が生きていたら

板垣退助はこんなことを言っています。「中岡慎太郎は、木戸孝允のように政治家になっていたと思われる。坂本竜馬が生きていたら、岩崎弥太郎のように、事業家になっていただろう」日本にとって、本当に大きな人を亡くしてしまいました」

二人のお墓と銅像

二人のお墓は、京都の霊山墓地にあります。龍馬の墓は左側、中岡慎太郎の墓は右側で仲良く並んでいます。今の日本について二人は何と語り合っていることでしょうか。

故郷の高知県に龍馬の銅像が、桂浜にあります。龍馬は東の方を見ています。この銅像は、板垣退助が建立しました。

中岡慎太郎の銅像は、生誕の地、室戸岬にあり、南を向いているそうです。

また、二人一緒の銅像が、京都円山公園にあります。龍馬は、左側に立ち、右には中岡慎太郎が腰をおろした形になっています。新政府を作るという同じ目的に向かって尽力した二人の功績を忘れないようにしたいものです。

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更新日:2018/06/07