坂本龍馬暗殺事件

坂本龍馬は33歳の時(慶応3年11月15日)、京都近江屋の二階で午後9時すぎ刺客に襲撃されて死亡しました。しかし、その犯人は未だ不明のままです。大きな仕事を成した坂本龍馬は敵が多く、誰に殺されても不思議ではなかったようです。

テレビで暗殺の検証をしていました。それを中心にまとめてみました。

2010年5月にテレビ放送された土曜プレミアム「知られざる龍馬伝」は、見応えのある番組でした。以下にまとめてみましたが、誤りもあるかもしれませんので、お断りしておきます。

坂本龍馬が幕末の志士として有名になったのは、 司馬遼太郎楽天 が1962年から産経新聞に掲載した「竜馬がいく」がたくさん売れてからのことでした。それまでは殆ど歴史に埋もれていたようです。

坂本龍馬、暗殺5日前の書状見つかる

2017年1月に高知県が発表しました。龍馬が暗殺の5日前に福井藩の重臣、中根雪江へ当てて書いたものでした。特別きれいな字で丁寧に書いてあったようです。内容は、福井藩主の松平春嶽が京都に来てくれたことへの感謝、福井藩士の三岡八郎、後の由利公正を「新国家」の樹立のために出仕させるように懇願するものでした。

龍馬の手紙140通以上の中で、「新国家」という言葉が初めて確認されたそうです。日付は十一月十日とあり、暗殺された11月15日の5日前に書いたとみられます。才谷梅太郎(梅は古い字)と記され、本文中には「龍馬」の署名があったそうです。

三岡は、翌月の12月に京都へ入り、新政府の五か条の御誓文の起草や初期の金融財政を担当しました。この手紙の発見が遅れたのは、封紙に朱書きで「坂本先生遭難直前之書状 他見ヲ憚ルモノ」と書いた付箋が貼られていたからです。

追白として、今日永井玄蕃頭(幕臣 永井尚志)を訪ねたが面会できなかった。談じたい天下の議論が数々あり、明日また訪ねたいと考えている。と、書いていました。

龍馬の暗殺が起きて、この手紙が暗殺の黒幕を匂わせていたとも考えられます。幕府方の誰かの指示によるものかもしれませんね。歴史家・磯田先生は、以前、会津藩の松平容保などが怪しいと見られていました。会津藩は幕府一途の藩です。この手紙が発見されて、先生のお考えにも影響があったでしょうか?

坂本龍馬の略歴

坂本龍馬の暗殺事件を考える、誰に殺されたかを考えるには、坂本龍馬の生き方を知り、坂本龍馬の足跡を調べることが重要です。

坂本龍馬(1835-1867年)
幕末の志士、高知県(現、高知市上町一丁目)の郷士、坂本八平の次男として生まれました。(天保6年11月15日)兄1人、姉3人の末っ子でした。幼少時には泣き虫であったそうですが、末の姉、乙女は龍馬を理解し励ましてくれました。また、武芸、学問も乙女から習いました。龍馬が12歳の頃に母・幸が亡くなり、その後は乙女が龍馬の母代わりでした。龍馬は178センチで当時としては大柄のようでした。
生家
土佐藩は特に身分制度が厳しく、武士の中でも上士(じょうし)、下士(かし)の階級があったそうです。坂本龍馬の曾祖父は商人でしたが、お金で郷士(下士)の株を買ったそうで、武士としての地位が低かったようです。郷士は下駄をはくことも許されなかったそうです。(また、龍馬は明智光秀の子孫と言う説もあります)土佐では恵まれた裕福な家庭で、質屋、酒造業、呉服商を営んでいました。
剣術修行
19歳の時に江戸の千葉貞吉(千葉周作の弟)の門下生となり、剣術修行に励みました。この時に黒船来航に出会い、外国の進んだ文化を目の当たりにして衝撃を受けたようです。佐久間象山の塾で砲術、漢学、蘭学を学びました。ここで、千葉貞吉の娘、千葉さなに出会い後に婚約をしたようですが、龍馬の世直しを理解し龍馬を自由にしています。龍馬亡き後、一度結婚したそうですが、離婚しました。そして、墓の裏には「坂本龍馬室」と彫られています。
海外への目
20歳で土佐へ帰り、河田小竜(しょうりゅう)という絵師に出会い交流し、世界情勢に目を開かれ、海外への夢を持つようになったそうです。土佐でも砲術とオランダ語を学びました。1855年父が亡くなりました。
再び千葉道場へ
再び千葉道場で修行を積みました。
25歳で土佐へ
学問の必要性を感じ、読書に励み蘭学も学びました。27歳で武市瑞山・たけちずいざん(武市半平太・たけちはんぺいた)が結成した土佐勤王党の攘夷運動に参加しました。
長州藩へ
1862年武市の密書を持って長州藩の久坂玄瑞を訪ねました。久坂玄瑞の広い見識に触れ、攘夷運動は一藩を超えるものであると確信したようです。そして、武市半平太と意見が合わず、脱藩しました。その時龍馬は28歳でした。脱藩は切腹にも及ぶ罪なので、命がけで土佐を出ました。
勝海舟との出会い
江戸に出て、幕府の軍艦奉行・勝海舟を訪ね(状況によっては龍馬は勝海舟を切るつもりだったと言われています)、 勝海舟楽天 の話で世界に対して日本がいかに遅れているか知ることになり、その場で門下生となりました。その後、勝海舟の下で神戸海軍操練所の設立に力を注ぎましたが、後に神戸海軍操練所は閉鎖されました。
亀山社中設立
薩摩藩の助けを借りて、土佐藩の脱藩者などを中心にして、海運・貿易に携わりました。
薩長連合盟約を設立
1866年薩長連合盟約を設立させました。薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、高杉晋作らと強い結びつきができました。薩長が倒幕運動に協力する6か条の同盟を締結しました。
海援隊へと発展
土佐藩の後藤象二郎らの助けを借りて、亀山社中を海援隊に発展させました。脱藩の罪もこの年に許されました。また、中岡慎太郎を中心とした陸援隊も少し遅れて作られました。
大政奉還
1866年、徳川慶喜が将軍になりましたが幕府の権力も回復せず、薩長を中心とした倒幕の動きが強くなって来ました。龍馬は後藤象二郎に策を与え、前土佐藩主・山内容堂を動かして、慶喜に対して大政奉還の建白書を提出させました。この時、後藤が斬り殺されたならば、龍馬は将軍を殺して自分も死ぬ覚悟をしていました。(1867年)龍馬は無血で政権交代が行われることを願うとともに、オランダ商人からライフル銃を土佐藩などのために購入したり和戦両方に備えていました。
龍馬暗殺される
坂本龍馬は、新政府の体制作りに奔走しましたが、わずか1ヶ月後の11月15日にしょうゆ屋・近江屋の二階で中岡慎太郎と協議中に刺客に襲われ亡くなりました。

日本のために働いた坂本龍馬

激動の時代を駆け抜けた坂本龍馬。33歳という短い生涯だったけれど、数々の大仕事を成しました。今までの日本人の持っていなかったスケールの大きさ、何事にも捕らわれない自由な発想、自分が身分制度でがんじがらめであったのでそういう社会を無くしたいという思い、外国に負けない新しい日本を作りたいという思いが、坂本龍馬を駆り立てていたと思います。

たくさんの師に出会い、その師を乗り越えて、龍馬の中では新しい考え方・構想が雪だるま式にできあがって行ったように思われます。龍馬は大名から町人まで幅広い人脈を持ち、ひたすら日本の明日のためにと命も惜しまず突き進んでくれました。

龍馬の若い柔軟な発想と強い信念、すばやい行動力が日本を内戦から守り、外国からの支配を受けずに済ませてくれました。日本が独立国としてやってこられたのは、坂本龍馬の功績も大きいと思います。

しかし、坂本龍馬のその力は、古い考え方の人達に恐れられ、大政奉還を成した後は煙たがられたのかもしれません。

坂本龍馬、暗殺日の様子

慶応3年11月15日、雨模様の日、京都河原町近江屋へ坂本龍馬はいました。午後2時すぎには2軒隣の土佐藩士を訪ねたが不在でした。この日、龍馬は風邪をひいていたようです。

共に刺客に刺されたという中岡慎太郎は、薩摩藩へ手紙を出し近江屋へ返事をくれるように書いていたと言われます。

この頃には、坂本龍馬は土佐藩邸への出入りを禁止されていたそうです。土佐藩を脱藩し、その後、土佐藩主に脱藩を許されてはいたのですが、一度脱藩したらそうやすやすと元のさやには納まれ無いと言うことでしょうか。

近江屋の二階で致命傷を受けた

暗殺された部屋は、八畳間の和室でした。京畳は、江戸畳より一回り大きいです。天井は屋根裏部屋の様に、斜めになっていました。

中岡慎太郎の証言では、刺客は2人で二人同時に斬りかかってきたそうです。その時「こなくそ」という言葉を刺客が吐いたそうです。

龍馬の刀傷
一番に額に向かって左から右へ真っ直ぐに切られたようです。掛け軸に飛び散った血痕から想定できるそうです。二番目に背中を右上から左下へと切られました。龍馬がお床へ置いていた自分の刀を取ろうと背を向けた時に切られたようです。三番目には、額を右上から左下へと切られ、この傷が脳にまで達して致命傷となりました。龍馬は自分の刀を取り、さやで刀を受けました。削れたさやは残っています。また、天井に穴があるのは、龍馬がさやを立てて刀を受けようとした時に、天井を破った跡だそうです。天井が斜めで低かったせいです。この間約1秒足らずだと言うことです。北辰一刀流の坂本龍馬でさえ、ふいを襲われたら為す術がなかったようです。そして、当時は灯りが暗かったので犯人の顔も分からなかったと思われます。龍馬には34カ所の傷があり、滅多突きにし、出血多量の状態にしたようです。大騒ぎになるとすぐ近くの土佐藩や海援隊が来ることが分かっていたから、すぐに去っています。
中岡慎太郎の傷
中岡慎太郎は、隣の屋根の上で負傷していたそうです。中岡にも28カ所の傷がありました。2日後に亡くなったとはいえ、重症だったので、いろんな証言は不可能だった可能性があります。

暗殺現場の様子(犯人の遺留品など)

十津川の郷士(奈良県十津川村、純粋な勤皇で幕末は御所の警備にあたった)
近江屋の龍馬がかわいがっていた使い走りの子(峰吉)に「シャモ鍋が食べたい」と言い買い物にやりました。用心棒は、1階にいました。戸を叩き「十津川の郷士だが、坂本龍馬に会いたい」と言ったそうです。その旨2階へ報告すると、坂本龍馬は会うというので、下へ行き「会うと言っている」というが早いか斬り殺されました。刺客は2人とも3人とも言われています。
刺客の忘れ物
下駄と刀のさやの二つです。下駄は新撰組が常宿としていた宿の下駄でした。犯人のカムフラージュのために使われたと思われます。新撰組の近藤勇は「やっていない」とはっきりと明言しています。
中岡慎太郎と土佐藩
坂本龍馬と中岡慎太郎は、大政奉還後の新政府の構想を話し合っていたと言われます。中岡慎太郎は、土佐藩がかけつけた時に瀕死の状態でまだ息があり、2日後に亡くなったと言われています。しかし、その後も生きていたのではないかという説もあります。そして、中岡慎太郎が坂本龍馬を殺し、中岡慎太郎は坂本龍馬にピストルで打たれ、そのピストル跡を隠すために土佐藩の武士にピストル傷の辺りを何回も切られたという説もあります。

坂本龍馬はなぜ殺されたか

大政奉還を実現させ、新しい政府の構想を考えた龍馬。龍馬直筆の「新政府綱領八策」には、「○○○ 新政府の長」と名前を入れずに書かれていたそうです。恐れおおくも坂本龍馬自身の考えを、そこに書くことはできなかったようです。

推測では、大政奉還をした徳川慶喜公の名前を考えていたのではないかということです。しかし、新政府の重要な役所に着いた人達からすると坂本龍馬の新政府構想は、受け入れられない物もあったと思われます。この「新政府綱領八策」は、明治の五箇条のご誓文の参考にされました。

幕末の状況は混沌としていました。

衰退している幕府、幕府を武力でも倒そうとしている薩摩藩と長州藩、幕府に近しい関係にあった土佐藩、武器(銃)の輸入元イギリスとの関係など坂本龍馬を取り巻く環境も極限の緊張状態にありました。

坂本龍馬は、常にピストルを懐にしのばせていたと伝えられています。敵が多く誰に殺されてもおかしくない状況であったことを坂本龍馬自身がわかっていたのです。函館の姪に龍馬が送った手紙にも、迫り来る死の予感を感じることができるそうです。

46億円のビッグビジネス
海援隊では、学者、医者、商人などが集まって来ましたが、身分制度はなく自由に仕事をしました。そんな中で、長崎で有名なグラバー邸の持ち主であるトーマス・グラバー(日本に炭坑や造船所を作りました)は、隠し部屋で各藩と極秘の取引をしていました。1860年代からゲベール銃というのを日本に売っていました。長州藩には、7300挺を売ったそうです。また、グラバーは、「龍馬が千両(5000万円)を貸してくれと言ってきた」と記しているようです。また、幕府側にも武器を売っていたようで(1865年、大砲35、火薬700屯)相対する内戦の両陣営に武器を売っていたということになり、どちらからも反感を買うことに繋がりました。
薩長同盟
坂本龍馬は、イギリスの名代として送られたとの見方もあるようです。薩長が同盟し幕府に対して兵を挙げれば日本に内戦が起き、イギリスは武器がたくさん売れてもうかると思ったのでしょうか。新政府で重要な役割を担った長州藩も龍馬を暗殺したかもわかりません。また、イギリス側も可能性ゼロとはいかないと思います。
幕府からも追われる
京都寺田屋では、龍馬は偽名を使って泊まっていたそうです。幕府から捕り方がやって来ました。龍馬は懐からピストルを出し撃ちながら、間一髪の所で逃げました。その時に左手首を切られました。その時京都の薩摩藩邸に逃げ、西郷隆盛に藩邸の一室にかくまってもらいました。幕府から逃れ西郷の薦めでお竜とともに日本発の新婚旅行へ鹿児島へ向かいました。幕府が、幕府を倒された恨みや寺田屋で龍馬を捕り逃がした恨みから暗殺したという見方もあります。
薩摩藩
薩摩藩は武力で幕府を倒そうとしていました。それがすっと難なく大政奉還が行われ、闘志のやり場がなくなったという見方もできます。肥後藩には、薩摩藩士から聞いた話で、「こなくそ」は「こげなくそ」という薩摩の言葉だと吉井幸助から聞いたと伝わっているようです。また、西郷隆盛は、軍人であり武力討伐派だったことから、坂本龍馬を殺したかもしれないと疑う人もいます。
京都見回り組・今井信郎
今井が自首してきましたが、証言が色々と食い違い実行犯でないことが分かりました。腹を切ったなどと全く違う証言をしたため、2年後西郷隆盛は今井を釈放しました。しかし、今ではいろんな資料から今井信郎や京都見回り組が龍馬暗殺の犯人に一番近い人物であると考えられています。そして、命令した人は、幕府方の会津藩の者ではなかろうかということです。
土佐藩
前土佐藩主・山内容堂は、脱藩者坂本龍馬、郷士出身の坂本龍馬が活躍することをよく思っていなかった可能性もあります。また、土佐藩の実質的権力者である後藤象二郎は、大政奉還が成った後は、坂本龍馬はいらないと考えていたかも知れません。後藤は生粋の武士でしたから。そして、大政奉還やその後の新政府綱領八策などを土佐藩のものとしたかったのかもしれません。
紀州藩
紀州藩は、海援隊の船(いろは丸)と紀州藩の船が衝突した際に、海援隊のいろは丸が沈没し、紀州藩は大金を払わされました。その時の恨みで暗殺されたという意見もあります。
会津藩
会津藩は大政奉還に反対していた幕府内の強硬派で大政奉還に大きな力を発揮した龍馬を暗殺する動機は十分あると見られています。

他にも、新撰組説(上の刺客の忘れ物で記しています)などがあります。

坂本龍馬の夢

坂本龍馬が生きていたら、どうしていたでしょう。

札幌市に住んでおられる龍馬から五代目の坂本登さんは、「龍馬は北海道の開拓に出かけ、新しい国をつくろうと思っていた」と言われています。

坂本龍馬は、新政府の役員になることは望んでいなかったと思われます。ただ日本の将来を憂い、日本のために動かなくてはと強い意志で駆けていたのだと思います。

お竜さんは、坂本龍馬亡き後、勝海舟の紹介で横浜の料亭「割烹料亭 田中家」で働きました。また、伊藤博文にお金を借りたこともあったようです。30歳で再婚し66歳まで生きました。お墓には、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているそうです。

*「坂本龍馬の仕事」「長崎と龍馬」のページも合わせてお読みください。

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更新日:2018/06/07