宇宙飛行士・山崎直子
山崎直子さんは、日本人で二人目の女性宇宙飛行士です。一番目の宇宙飛行士は向井千秋さんでした。山崎直子さんは一児の母でもあります。
2010年4月5日、山崎直子さんはスペースシャトル・ディスカバリーに搭乗し、ロボットアームの操作や物資の搬入などの仕事をこなし、20日に無事に帰還されました。
山崎直子さんの歩みなどを、NHK「スタジオパークからこんにちは」2010年11月2日の放送を中心にまとめてみました。
山崎直子さんの歩み
1970年(昭和45年)12月、千葉県松戸市生まれ
1993年、東京大学工学部航空学科を卒業
1996年、東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻修士課程を修了
1996年4月、宇宙開発楽天 事業団宇宙環境利用システム本部JEMプロジェクトチーム員
1998年6月、宇宙開発事業団宇宙環境利用システム本部セントリフュージ・プロジェクトチーム開発部員
1999年4月、日本人宇宙ステーション宇宙飛行士の基礎訓練に参加
2001年9月、日本人宇宙ステーション宇宙飛行士の基礎訓練終了し、宇宙飛行士として認定される
2003年10月、宇宙開発事業団は宇宙航空研究開発機構宇宙基幹システム本部に組織変更となり、同宇宙飛行士
2006年2月、NASAミッションスペシャリスト(MS=搭乗運用技術者)認定
2008年3月、筑波宇宙センター運用管制室通信担当でクルーサポートアストロノート(搭乗者支援宇宙飛行士)として「きぼう」を地上支援
2008年5月、土井隆雄さんの搭乗したミッションを搭乗者支援宇宙飛行士として支援
2010年4月5日、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗し、ケネディ宇宙センターから宇宙へ。6日、ロボットアームやセンサー付き検査用延長ブームを使い、機体の点検。7日、ISS到着。野口聡一飛行士らに迎えられる。滞在中に、ISSのロボットアームを操作し、補給物質を搭載した「レオナルド」をシャトルの貨物室からISSへ移動。また、レオナルドから実験用資材やその他の機器・資材の搬入を行った。17日、ディスカバリーでISSを離れた。20日、ケネディ宇宙センターへ無事帰還。
山崎直子さんの宇宙での体験・感想
以下は、山崎直子さんのお話です。
- 国際宇宙ステーション(International Space Station)での仕事
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国際宇宙ステーション(ISS)は、地上から約400kmの所にあるそうです。そして、時速2万8000kmで移動しており、90分で地球を1周します。
国際宇宙ステーション(ISS)は、サッカー場くらいあり、人が住める場所はジャンボジェット機2台分位の広さがあるそうで、6人が常駐しています(2009年5月から)。そこに、補給物質を運びました。
うち上げから3日目に、スペースシャトル・ディスカバリー(7人搭乗)とISSとのドッキングが行われました。そして、翌日補給物質を移して取り付けたそうです。その荷物は6トンもあったようです。服や食料、研究用物質などだそうです。
- 15日間の宇宙空間での生活
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- お風呂・・・入れません。タオルを水で濡らし、石鹸をつけて拭くそうです。洗髪は、水の要らないシャンプーを使い、タオルで拭きとります。野口聡一さんは、6ヶ月間お風呂に入れないことになります。
- 睡眠・・・寝袋に入り、マジックテープで留めます。夜10時から朝6時までの8時間寝るそうです。
- 宇宙食・・・食事は一番の楽しみだそうです。200食の宇宙食があり、気に入ったメニューを自分で選ぶそうです。カレーなどのピリ辛味が元気をくれたようです。味覚が鈍感になるので、少し濃い味が良いとのことです。デザートは、栗ようかんがおいしかったそうです。
- モーニングコール・・・松田聖子さんの「瑠璃色の地球」を家族が選んでくれたそうです。また、映画「天空の城ラピュタ」の挿入曲「ハトと少年」も流されたそうです。
- 地球・・・宇宙から地球を見ると、奇跡的に生かされていることを感じるそうです。そして、青く美しい地球に生きられることを感謝する気持ちになったそうです。
国際宇宙ステーション(International Space Station)とは
- 参加国
- ISS計画の参加国は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリスの15カ国となっています。
- 費用
- 運用終了までに要する費用は1540億USドルと見積もられていて、人類史上最も高額なプロジェクトであると言われています。1999年から軌道上での組立が開始され、2010年秋の完成を予定していました。当初の運用期間は2016年までの予定でしたが、アメリカにより2020年までの延長が検討されている状態です。
- 滞在人員
- ISSに滞在するクルーは当初は3人、コロンビア号事故後しばらくは2人でしったが、2009年5月29日からは6人に増加されました。尿から水を取り出す装置を設置してから増員が可能になったようです。
宇宙食とは
宇宙食には、長期保存ができること、軽量であること、臭いがきつくないこと、飛散しないこと、栄養価が優れていること、温度変化や衝撃に耐えること、特殊な調理器具を必要としないことなどの条件があります。
この条件を満たすためには、フリーズドライの食品が多いそうです。
スペースシャトルでは摂氏70度、国際宇宙ステーション(ISS)では摂氏80度止まりであるため、インスタント食品でもこの程度の温湯で美味しく調理できるものが求められるそうです。
- 宇宙で食べられた日本食
- 白飯、赤飯、五目炊き込みご飯、日の丸弁当、お稲荷さん、白かゆ、レトルトカレー、天ぷらそば、京風あんかけ五目うどん、カレーラーメン、しょうゆラーメン、シーフードラーメン、肉じゃが、焼き鳥、さけの南部焼き、イワシのトマト煮、菜の花ピリ辛あえ、オニオンスープ、たまごスープ、お好み焼き、たこ焼き、スペースねぎま、ワカメみそ汁、梅干、浮かし餅、羊かん、草加せんべい、ほうじ茶など。
宇宙での体の変化は
宇宙では、無重力による体への悪影響があります。
- 体液や血液が上半身にも移動
- 地球にいるときには、重力(1G)がかかっているために、下半身に体液や血液が行きがちです。重力が無くなると、体液や血液が上半身にも移動し、顔がむくみ、丸くなるようです。しかし、2~3日経つと、脳が尿をたくさん出すなどの調整をしてくれて良くなるそうです。宇宙では、地球よりも体液・血液が減るので、帰還する時には水を約1リットルほど飲むことになっているようです。
- 骨のカルシウムと筋肉が減る
- 無重力では、強い骨が必要ないので、骨からカルシウムが抜けていくそうです。その予防のためにも1日2時間の運動を行うそうです。
山崎直子さんの宇宙飛行士への道のり
- 子供の頃
- 千葉県松戸市に生まれました。宇宙戦艦ヤマトやプラネタリウムで星を見るのが好きな子供でした。近くのプラネタリウムに星座の話を聞きによく行っていたそうです。
- 中3の時
- 中3の時に、チャレンジャーの打ち上げを見たそうです。この時は、打ち上げに失敗し、宇宙飛行士は亡くなってしまいました。普通の人は、悲劇ばかりに目がいきますが、山崎直子さんは違っていました。マコーリフさんと言う学校の女性の先生が搭乗していたことに注目したそうです。学校の先生が、宇宙へ行けるのだということの驚きの方が衝撃だったようです。事故は怖いけれど、宇宙飛行士になりたい。そして、マコーリフさんの笑顔が山崎直子さんの頭に残り、その後時々思い出したそうです。「女性、学校の先生、宇宙飛行士、笑顔」が印象に残ったそうです。
- 1996年
- NASDA(現JAXA)に勤務し、JEMプロジェクトチームにおいて「きぼう」日本実験棟のシステム・インテグレーション(開発業務)に従事し、故障解析及び組み立て・初期運用手順作成などを実施しました。NASDAが、日本人宇宙飛行士の候補者を募集し野口聡一さんが選ばれました)
- 1998年
- セントリフュージ・プロジェクトチームにおいてISS生命科学実験施設(セントリフュージ)の開発に従事し、概念検討から基本設計を実施しました。
- 1999年
- 1999年2月に、NASDA(現JAXA)よりISSに搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者として、古川聡、星出彰彦、山崎直子の3人が選定されました。
- 2000年
- 山崎大地さんと結婚。筑波宇宙センターで地上で行う宇宙管制官として働いていましたが、ヒューストンへお互いに行っていたそうです。
- 2001年
- 正式に宇宙飛行士に認定されました。体を使う訓練が無くなったそうです。そこで、今しかないと思い、2002年に長女を出産しました。女性の宇宙飛行士で育児を両立している人が十数名いるそうです。
- 2003年
- 国際宇宙ステーションがいつできるかわからないという状況でした。
- 2004年
- ロシアのソユーズのフライトエンジニア資格を取得。1年弱、ロシアへ行っていました。
- 2006年
- NASAミッションスペシャリスト(MS=搭乗運用技術者)に認定。家族でアメリカへ行きました。妻の訓練を支えるため、会社を辞めて「主夫」を引き受け渡米した大地さんが、一時環境適応障害になり、家庭崩壊の危機も訪れました。国際宇宙ステーション運用管制官の夢をあきらめた上、米国での新たな職探しが制限された大地さんは、辛くストレスで一時精神的に不安定になったそうです。第三者をはさみ話し合ったことで、もう一度やり直すことになりました。
- 2010年
- 2010年4月5日、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗し、ケネディ宇宙センターから宇宙へ。15日間のミッションを見事こなして20日に帰還しました。
日本人宇宙飛行士の人たち
- 秋山豊寛
- 1990年12月2日、日本人初の有人宇宙飛行を体験しました。ソユーズTM-11号に搭乗し、宇宙ステーションミールに6日間滞在の後、先任クルーと共にソユーズTM-10号にて地球へ帰還しました。当時TBSの社員であり、「宇宙特派員」として宇宙へ派遣されました。国際基督教大学教養学部卒。旧ソビエト連邦宇宙飛行士。
- 毛利衛
- 1992年初飛行、2000年には2度目の飛行をしました。スペースシャトル計画において飛行した初の日本人です。北海道大学理学部化学科卒(原子工学)。宇宙航空研究開発機構(JAXA)・アメリカ航空宇宙局(NASA)宇宙飛行士。
- 向井千秋
- 1994年初飛行。日本人・アジア人の女性として初の有人宇宙飛行をしました。1998年に2度目の飛行(STS-95)を行い、複数回宇宙に出た最初の日本人となりました。慶應義塾大学医学部卒(心臓血管外科)。JAXA・NASA宇宙飛行士。
- 若田光一
- 1996年初飛行、日本人としては初めてミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として参加しました。2000年に2度目の飛行を行いました。日本人としては初めて国際宇宙ステーションへ長期滞在を行いました。九州大学工学部航空工学科卒(宇宙工学)。JAXA・NASA宇宙飛行士。2013年末から6ヶ月間ISSに滞在し、最後の2ヶ月間、日本人として初めて船長として宇宙で指揮をとることに決まりました。宇宙へ飛び立つのは4度目で日本人では最多です。長期滞在は2009年に次いで2度目となります。ISSには6人が滞在。船長は大半が米露の飛行士で軍人が多いそうです。若田さんは「日本人の和の心を大切にして、チームを取りまとめたい」と抱負を語っています。
- 土井隆雄
- 1997年初飛行、同時に、日本人として初めて宇宙船外活動を行いました。2008年に2度目の飛行を行いました。東京大学工学部航空学科卒(宇宙工学)。JAXA・NASA宇宙飛行士。
- 野口聡一
- 2005年初飛行。2009年にはJAXA・NASA宇宙飛行士としては初めて、ソユーズに搭乗し国際宇宙ステーションへ5ヶ月半の滞在を行いました。また、日本人として初めて宇宙船の操縦業務(副操縦士)に関わりました。東京大学工学部航空学科卒(航空学)。JAXA・NASA宇宙飛行士。
- 星出彰彦
- 2008年初飛行。慶應義塾大学理工学部機械工学科卒(熱流体工学)。JAXA・NASA宇宙飛行士。2012年初夏頃にソユーズに搭乗し、国際宇宙ステーションへ6ヶ月程度の長期滞在が予定されています。
- 山崎直子
- 2010年4月初飛行。東京大学工学部航空学科卒(宇宙工学)。JAXA宇宙飛行士。日本人初のママさん宇宙飛行士。
- 「古川聡」
- 東京大学医学部医学科卒(消化器外科)。JAXA宇宙飛行士。2011年春頃にソユーズにて初飛行し、国際宇宙ステーションへ6ヶ月程度の長期滞在が予定されています。
- 「大西卓哉」
- 東京大学工学部航空宇宙工学科卒。2009年4月よりJAXA宇宙飛行士候補者として訓練中。元ANA運航本部所属のパイロット。
- 「油井亀美也」
- 防衛大学校理工学専攻卒。2009年4月よりJAXA宇宙飛行士候補者として訓練中。元航空自衛官。
- 「金井宣茂」
- 防衛医科大学校医学科卒。2009年9月よりJAXA宇宙飛行士候補者として訓練中。元海上自衛官。
山崎直子さんへの質問
- 娘さんが宇宙飛行士になりたいと言ったら
- 嬉しいです。
- 得意料理は
- カレー、シチュー、唐揚げ弁当などです。
- 辛かった訓練は
- サバイバル訓練です。冬のロシアの雪原で、森の木を切ってテントを張り、3日間は自分たちだけで生き延びるというものです。
- 宇宙での身体的変化は
- 月に1.5%骨密度が減り、筋肉も減ります。身長は4cm伸びました。
スペースシャトル、今後の行方
NASAの現在の計画では、シャトルは2011年2月26日に退役し、30年近くに及んだその活動を終了することになっているようです。現行の予定では、3機残っている稼働中の機体の中でまず最初にアトランティスが引退し、計画の幕を閉じます。しかし、予算が認められれば2011年6月に最後のスペースシャトルとしてアトランティスが飛行することになっているそうです。
2010年にスペースシャトルが退役した後は、現在使用中の輸送機に加え、開発中のいくつかの輸送機が使用されるそうです。
スペースシャトルの事故(チャレンジャー号、コロンビア号)
- チャレンジャー号
- 1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号は、打上から73秒後に爆発しました。乗組員7名全員が亡くなりました。事故の原因は、機体の最重要機器の一つであるOリングが、異常寒波の低温により損傷しました。現場の技術者は再三にわたり12℃以下の気温でのOリングの安全性は保障できないと警告しましたが、NASAの幹部はこれを無視したそうです。
- コロンビア号
- 2003年2月1日、帰還の際、大気圏への再突入時に空中分解して、乗組員7名全員が亡くなりました。事故の原因は、発射の際に主翼前縁の強化カーボン・カーボン断熱材が損傷したことでした。地上管制室の技術者たちは損傷の広がりをより明確に把握できるよう、国防総省に対して三回にわたって高解像度の写真を撮影するよう要求しました。NASAの熱保護システムの技術主任は、コロンビア号の飛行士たちに耐熱タイルの損傷を調査するための船外活動の許可を求めました。NASAの幹部は国防総省の支援の動きに介入してこれを停止させ、船外活動の要求も拒否したそうです。その結果、飛行士が自ら修理したり、発射準備作業中であったアトランティスで救援に向かったりすることは、できませんでした。