中原淳一の芸術
中原淳一は、少女雑誌の表紙絵や挿絵が有名ですが、これ以外にも、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアメイク、作詞家など活動範囲は広かったのです。
戦後生まれの人は、中原淳一の活躍をよく知らないと思います。戦争前後の時期には芸術など重要視されませんが、その時期にも若い女性の憧れや装いを提唱し続けた中原淳一は、すごいと思いました。
中原淳一とは
中原淳一と言えば、少女雑誌の表紙を飾る、目の大きな美しい少女の絵を描いた人という印象が強いです。しかし、その活動の範囲は広く、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアメイク、作詞家など、多彩な顔を持ち、若い女性の憧れや装いを提唱し続けるすぐれたリーダーでした。
そのすぐれた才能を現代の人は、ほとんど知らないことが残念ですね。
奥さんは、宝塚歌劇団の戦前のスター葦原邦子さんで、宝塚レビュー黄金時代を代表する男役スターでした。雑誌「宝塚をとめ」の表紙を中原淳一が手掛けたことが縁で知り合ったそうです。
葦原邦子さんは、テレビ番組「けんちゃんシリーズ」でおばあさん役をされていて、柔和な笑顔が印象的な方でした。
子どもの頃からの中原淳一
中原淳一楽天 は、1913年・大正2年2月16日に香川県で生まれました。
1915年には、父親の転職により一家で徳島県徳島市に転居しました。兄1人、姉2人の末っ子で、姉と遊ぶのを好んだそうです。その頃は男の子はチャンバラ遊びが流行っていましたが、中原淳一はしなかったようです。人形遊びが好きな変わった少年でした。
6歳の頃、父が急死し、家族はバラバラになりました。
1924年・大正13年、母とともに広島県広島市に転居して広島女学院付属小学校に転入しました。キリスト教会の牧師館で生活をしていました。牧師館では、外国の服が見られ、その服がかわいくて美しく興味を持ち、洋服の知識を身につけていったそうです。
ミシンの使い方も覚えました。人形の服も自分で作れるようになりました。代用教員時代の杉村春子と知り合い、生涯にわたり交遊を持ったようです。
1925年・大正14年、同小学校を卒業し、母とともに画家を目指して上京しました。
1928年に日本美術学校に入学しました。ピカソやルオーのような本格的な油絵を描きたいと思っていました。また、竹久夢二の絵が、可憐でかわいらしく思えたそうです。
20歳前後の中原淳一
兄は、中原淳一の描く絵が気に入りませんでした。「可愛いものがなぜ悪い」と、中原淳一は思いました。
その頃、日本各地に青い目の人形が贈られました。西洋人形が珍しく、大きな反響があり、ブームとなりました。そこで、中原淳一は人形作りを思いたちました。
高さ80cmの人形で、かわいいドレスを着せ、細部までリアルに創り上げました。そして、1932年19歳の時に、銀座松屋にてフランス風人形の個展を開催し大反響となりました。
これが、雑誌の編集部の目に止まり、雑誌「少女の友」の表紙、挿絵を手がけるようになりました。中原淳一の描く少女の目は、きらめきやまつ毛を強調したものでした。そして、一流抒情画家の仲間入りをしました。
少女の友の付録は、中原淳一のイラスト集や啄木カルタ、バースディ・ブックなど数々のものがあり、乙女心をくすぐるアイディアが生きていました。
「友ちゃん会」もできた
中原淳一の描く少女は目がひときわ大きいのが特徴ですが、目が大きくなるとアンニュイ・憂いに満ちた表情になります。また、多彩な洋服も人気となりました。
(描かれたこの大きな目の少女は、後に女優として大活躍の浅丘ルリ子さんにそっくりでした)
読者による「友ちゃん会」も立ち上がりました。中原淳一は、モンペ姿の少女の絵や慰問絵葉書なども描きました。服装指南コーナーなども設け、夏休みの女学生服装帳なども描き、浴衣地でのワンピースなども紹介しました。
昭和12年、日中戦争の頃の中原淳一
戦争が始まると、優美でハイカラ、目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれました。
「少女の友」は戦前戦中戦後と休刊無く発行されましたが、編集部が軍部の圧力に屈し、淳一のイラストは1940年を最後に掲載されなくなったそうです。印刷物は国家の統制を受けて、戦争を扱った記事が増えていきました。
中原淳一は、通信販売で、ファッションの本を自費出版しました。
昭和16年、太平洋戦争の頃の中原淳一
太平洋戦争が始まると、出版も中断しました。結婚し子どもも生まれていましたが、横須賀の海軍で、アメリカの飛行機の絵を描くように言われました。
ファッション雑誌「ソレイユ」に記事を書く
戦争を生き延びた中原淳一は、復員してすぐに出版の「ひまわり社」を設立し、1946年にファッション雑誌「ソレイユ」(フランス語で太陽、ひまわり、後のそれいゆ)を創刊しました。
「ひまわり」は1947年、「ジュニアそれいゆ」は1954年、「女の部屋」は1970年と相続いて創刊しました。
東京は焼け野原となり、物資が不足していた時代で、「ソレイユ」は生活を豊かにする方法を多くの女性に授けることで爆発的に売れました。
スイート・ポテトの作り方なども載せました。また、昭和20年代半ばは、住宅不足でした。6畳一間に暮らす工夫も載せました。棚に布のカーテンをつける、座布団はパッチワークで美しく、花を飾るなどの工夫でした。
中原淳一は、住まいは自分たちの趣味を表す所であって欲しいと言いました。そして、身近な材料で作ることを提案しました。
掲載内容は、マナーなどの礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、等幅広く一貫し「美しい暮らし」を演出したようです。
45歳で、心筋梗塞に
中原淳一は、45歳で心筋梗塞を患いました。千葉県の館山で25年間の闘病生活を送ったと言います。脳梗塞を起こし手もよく効かない状態でも、男性の人形達を作っています。
1962年には、「3人のスリ」という題で人形を作っています。
中原淳一は、「本当に描きたいものは、人間の悲しみや喜びである」と言っていたようです。
1983年・昭和58年4月19日、70歳で逝去されました。