竹久夢二
竹久夢二の画風
竹久夢二楽天 の描く女性は、一様に首をかしげ大きな目をしています。その瞳は上目遣いの者が多く、夢見るような物思いに耽っているような表情をしています。
手足が大きく描かれ(ゴーギャンの影響を受けているという人もいます)すらっとした痩身の女性です。
画風に影響を与えた要素はいろいろあるようです。
竹久夢二の生い立ち
竹久夢二は、1884年(明治17年)9月16日岡山県邑久郡(岡山市から東へ約20キロ)で次男として生まれました。家業は造り酒屋でしたが、夢二が育った頃は酒の販売と農業の兼業であったそうです。兄は夭折し、姉の松香は7歳でした。
明徳小学校に入った夢二は、馬の絵が得意でした。母方のいとこが馬の絵を好んで描き、夢二によく見せていたといわれています。高等小学校へ上がってからは、鉛筆画を習い、意識して自然を表現する方法を考えたそうです。母の実家は紺屋で、母方の祖父は夢二を画家にしようとしたが、父は商業学校へ入れて酒屋を継がせようとしていました。
16歳で神戸中学に入学するも八ヶ月で退学。父の放蕩が聞こえたために、姉の松香が離縁されました。母もしばしば実家へ逃げ帰ったそうです。夢二は年少の頃から、しいたげられた弱い女性の姿をみて成長しました。それが、夢二の絵に何らかの影響を与えていることと思います。
17歳で家業傾き両親と北九州市八幡区へ移住。近所の人の話では、「突然一家がいなくなった」ということで、夜逃げ同然に引っ越したようです。
18歳家出して上京、夢二は父の意志に従って翌年早稲田実業学校に入学。その後専攻科へ進みました。
優しい母や姉松香、7歳下の妹栄が、竹久夢二の性格形成に大きな影響を与えたと言われています。
竹久夢二の生涯
1884年(明治17年9月16日~1934年(昭和9年9月1日、画家、詩人。
1884年 岡山県邑久郡本庄村佐井田に、父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれ、本名は茂次郎(もじろう)といいました。
1901年 夢二は上京し、翌年早稲田実業に入学。
1905年 専攻科中退後、平民社の荒畑寒村らと文筆・絵の仕事を続けました。個性的な挿し絵が人気となって新聞のコマ絵・絵はがき「月刊夢二カード」「夢二画集」などを発行。
1907年 夢二23歳で岸たまきと結婚し、翌年長男虹之介、3年後に次男不二彦が生まれました。
1912年 京都府立図書館で第一回作品展を開き、「さみせんぐさ」の筆名で叙情詩「宵待草」を作った。その後結ばれた笠井彦乃とは、4年ほどで別れさせられました。
関東大震災の頃までは、お葉(佐々木かねよ)と所帯を持ち、その間には夢二の生涯の傑作「山へよする」「砂時計」「長崎十二景」「女十題」を作成。
1931年 「立田姫」「黄八丈」を発表後、アメリカ、ヨーロッパを旅したが、旅の無理がたたり、結核のために富士見高原療養所へ入院、(正木不如丘の好意で)。肉親、知人のみとるもののないまま波乱の一生を終えました。
竹久夢二が関わった3人の女性
岸たまき
竹久夢二は、中学時代から野球に興味をもっていました。早慶戦を絵葉書に描いて、新開店の絵はがき屋「つるや」へ売り込みに行きました。そこに、岸たまきがいました。金沢から来ていた眼の大きな若き未亡人たまきが、絵の中の美人のように座っていました。
3ヶ月もしないうちに二人は結婚しました。竹久夢二は理想のモデルと出会いました。しかし、互いに我が強い二人は2年後には協議離婚しました。が、別れた後も三度同居し、明治45年にまた別居しました。勝気なたまきの嫉妬心と竹久夢二の浮気心がすれ違ってしまったようです。
大正5年に一家は離れ離れになりました。長男は実家へ、次男は夢二と、三男はたまきと暮らすこととなりました。
あの有名な宵待草は、明治43年たまきと千葉県へ旅行中に知り合った、お島さん(賢かたという名で、お茶の水女子師範を出た文学少女)に失恋した時にできた叙情詩です。
笠井彦乃
竹久夢二のファンで「港屋」へよく出入りしていたのが笠井彦乃で、日本橋の紙問屋の1人娘。夢二より12歳年下で理知的な美しさの彦乃に魅かれていきました。夢二32歳。
若い母親彦乃と次男と夢二の3人の生活は幸せでした。でも3年後には彦乃が病に倒れました。その後彦乃は実家へ連れ戻され、大正9年25歳の若さで亡くなりました。結核でした。
お葉
絵のモデルとして出会いました。秋田美人で、藤島武二の専属モデルでした。
お葉は度々家出したり、男と心中をはかったりしました。が、最後には若い医者の妻となりました。