犬養毅(犬養木堂)

岡山県出身の総理大臣として、犬養毅は郷土の誇りです。そして、その清廉潔白な生き方も尊敬されています。現在の政治家にも犬養毅の政治姿勢を学んでもらいたいものです。

犬養毅、第29代総理大臣

犬養毅楽天 (犬養木堂)は、昭和6年 (1931年)12月、76歳の時第29代の総理大臣となったが、翌年5月15日、首相官邸において政府の方針に不満を持った青年海軍将校の凶弾に倒れた。これがあの有名な5・15事件(五・一五事件)だ。

最後に、青年海軍将校に向かって「話せばわかる」「問答無用」と言ったという言葉が有名だ。家族の話によると、玄関にいた警備人を破って5人の将校達が突然家に押入って来た。銃撃音が響き、近くに居た警備人が軍人が来たからすぐに逃げるように言うが、その場に孫や嫁や妻もいたようで、その家族を守るために「待て、撃つのはいつでも撃てる。話を聞こう」「話せばわかる」というような状況であったようだ。

憲法を守り、選挙によって国民に選ばれた代表者による、話し合いの政治を目指した犬養毅。戦争のない世界で、他の国とともに栄える日本を作ろうとした犬養毅。

犬養毅(木堂)の死後、日本は政党政治に終わりを告げ軍部によって第二次世界大戦へと導かれて行くこととなった。

犬養毅(犬養木堂)の略歴

岡山県大百科事典(山陽新聞社)の中で、半田輝雄氏は、犬養毅の人となりをこう書き記している。「背は低くやせぎすだが、眼光鋭く、気節に富み、気力旺盛、議場で論鋒鋭利、情に厚く、清貧にに甘んじた。また、文章を能くし、書は枯淡、一家を成し、棋品も高く、刀剣にも親しんだ。

犬養 健(いぬかいたける)は、犬養毅の二男、東京で生まれる。政治家・小説家。1896.7.28~1960.8.28 学生時代から白樺派の影響を受け作家を志した。第一創作集「一つの時代」、第二集「南京六月祭」で新領域を開拓、注目を集めた。その後、政治の道に進み衆議院議員に通算10回当選した。第4次・第5次吉田茂内閣の法務大臣となった。

犬養康彦は、犬養健の長男で共同通信社社長、前妻が犬養智子、後妻が大原総一郎の娘の大原れい子。 犬養道子は、犬養健の長女で評論家。異母妹に安藤和津、いとこの娘に緒方貞子がいる。

犬養家を受け継ぐ人たちは、小説家、評論家、芸術家、国際貢献に尽力する人と多彩で、視野の広い人たちであると感心する。岡山にも縁の深い方たち、これからも大いなる活躍を期待している。

犬養毅の書と銅像

岡山市北区庭瀬の庭瀬駅の構内に展示されている犬養毅(犬養木堂)が扇子に書いた書です。
岡山市吉備津にある吉備津神社の売店から西に少し歩くと大駐車場があります。そこには、郷土の偉人「犬養毅」の像が高々と立っています。515事件で暗殺された総理大臣です。第二次世界大戦前の不穏な時期に総理大臣になってくれと頼まれて高齢で総理大臣になりましたが、軍の暴走の犠牲になりました。犬養毅は、隣国中国とも仲良くして共に繁栄しようという考えでした。とても清廉潔白な人柄でした。今の政治や政治家を見たら何と言われることでしょうか。
犬養毅は高い位置に立って将来の日本を見据えているのでしょうか。

、犬養道子さん、最新作「歴史随想パッチワーク」は通算100冊目

犬養毅の孫の犬養道子さんが、100冊目の本を出された。おめでとうございます。

100冊目は、中央公論新社刊の「歴史随想パッチワーク」で、新作のカギは「北緯30度線」だそうです。 小さい頃、地球儀を見ているうちに気がついたそうで、「4大文明はまさにこの北緯30度線で発祥しているんです」と、言う。

新作では、この線を軸に、紀元前のエジプトの話、ニューヨーク貿易センターの自爆テロ、奴隷が新大陸に運ばれたニューオリンズなど場所と時間を自在に行き来しながら随想を展開する。

100冊の中で思い出深いのは、世界の飢えた子どもたちについて考察し、難民キャンプの実情も報告した「人間の大地」(中公文庫)という。「あの本を書いたときは、書いた当の私自身がショックを受けていた」と、悲しみと怒り交じりに、声を震わせる。

祖父犬養毅氏の5・15事件を機に、クリスチャンになった。「日本にいると自分自身のことを偽善だと思ってしまう。難民キャンプに行くとハッピーになる」と語る。

人間を見つめ、描き続けた。それでも「人間の中にある欲がナゾ」だ。いまだに分からないからこそ、次作は、自ら本職と考える聖書に立ち帰って、人間の心を扱う予定だ。

現在、86歳になられるが、ますますのご活躍を期待しています。2008.4.1. 読売新聞 (鷲見一郎さんの記事から)

祝、日本で博士号を得た、ソマリア難民のアブカル・ハッサン・スグレさん
(犬養道子基金の奨学金を受けていた)

内戦のソマリアを離れて17年。難民として暮らす日本で酪農学を修め博士号をとった。難民支援協会も初めて聞くという快挙。

1991年、内戦による流血の首都モガディシオから、バングラデシュへ。2人の兄は内戦に巻き込まれて殺され、母、姉、妹、弟はケニアへ脱出。難民認定を受け、バングラデシュ農業大で修士号を得た。

論文で知った日本人教授とメールをやりとりし、研究を続けようと来日。長期の難民認定裁判や経済難から学業は中断しかけたが、2005年に難民支援の犬養道子基金の奨学金を得て、北海道江別市の酪農学園大大学院に入った。

次は「学んだことを生かせる仕事を見つけたい」。国際組織で、酪農技術を使って貧しい国々を助けるのも夢だと言う。

いろいろ苦労もあった日本での生活だが、「やっぱり一番好きな国」と思うのは「世界で一番安全なところだから」と言う。9年前に来日した。40歳。ソマリア難民の妻は、英国で同胞難民を支援する仕事に就いている。一緒に暮らすのは1年のうち1ヶ月、5月に出産予定だ。二重におめでたいことだ。2008.4.6 読売新聞から

犬養毅の歩み

1855年(安政2年)4月20日備中国川入村(現、岡山市川入)の大庄屋、父、犬飼源佐衛門、母、嵯峨の二男として生まれた。幼名は仙次郎。7歳の時から漢学(森田月瀬・もりたげつらい)を学び、11歳の時には犬飼松窓(儒者)の三余塾で学んだ。師の松窓が倉敷の明倫館へ招かれたので、仙次郎も明倫館へ通い名前も毅と改めた。14歳の時に父を病気で亡くし、暮らしは裕福ではなかった。

1872年(明治5年)ごろまで、犬飼と名乗っていた。17歳で、小田郡笠岡村にあった、小田県庁地券課の臨時雇いとなった。1874年「万国公法」という本(現在の国際法)を読み(漢文で書いた物)、犬養毅は、この本の元になっている英語の本が読めるようになりたいという思いで、英語を学ぶために東京へ行く決意をした。

東京で、小田県庁の上役の山口氏に偶然会い、郵便報知新聞の主筆、藤田茂吉を紹介され、共慣義塾で英語を勉強した。1876年、藤田茂吉のすすめで書いた文章が新聞に採用され、仕送りをあてにしなくてよくなった犬養毅は、慶応義塾で学ぶ事にした。福沢諭吉の英語の原書を使っての経済学の講義を受けた。度々質問する犬養毅に福沢諭吉は、日本語の経済学の本を読み、英語力ももっとつけるように勧めた。しかし、その後の学年末テストの犬養毅の答案の内容のすばらしさ、文章力、字のうまさに、福沢諭吉も驚いたという。

1877年(明治10年)、犬養毅は郵便報知社から西南戦争の取材に行って、最前線から記事を送ってくれないかと頼まれた。学費も出してもらえることもあり、犬養毅は引き受けた。犬養毅の記事は迫力があり、文章もすばらしく人々の心をとらえた。結果、郵便報知新聞の売上が伸び、犬養毅の名前も全国で有名になった。

西南戦争後は、慶応義塾へ帰り、その後は経済ジャーナリストとして東海経済新報を発行、交じゅん社の活動もした。1881年統計院に入り、大隈重信の下で慶応義塾の同級生、尾崎行雄とともに働いたが、政変で辞職した大隈に従って2ヶ月で退職した。

1882年(明治15年)4月、大隈重信の立憲改進党(憲法を定めイギリスのような議会政治をめざす)が結成されると、犬養毅は、尾崎行雄と参加し、政治家への道を歩みだした。

1883年4月、秋田日報の主筆となった。

1890年(明治23年)第1回衆議院議員選挙、犬養毅は岡山三区から立候補、ほかの四人の立候補者と定員の一議席を争い、みごと当選した。

1892年、政府の民党へのいやがらせにも負けず、犬養毅は二回目の国会議員選挙にも当選した。1898年10月27日、犬養毅は岡山県初の大臣、文部大臣に就任した。しかし、11月8日に大隈内閣総辞職となり、たったの13日間の任期であった。

その頃日本へ亡命中だった孫文(中国独立運動の中心的役割をした) の世話をしたり、フィリピンの独立運動も支援したりした。

1920年(大正9年)、帝国議会に普通選挙実施の要求を提出した。

1921年、犬養毅は、世界平和が保たれている間に、行政改革と軍縮をし、産業の発展に注げと主張した。産業立国が犬養毅の理想だった。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災(死者約9万人)、翌9月2日、犬養は逓信大臣になり、郵便貯金の払い戻し手続きを簡単にした。犬養毅は、震災復興に尽力した。が、12月27日に虎の門事件がおこり、山本内閣は総辞職した。

1924年、清浦首相以下、貴族院議員ばかりの内閣となり、全国で第二次護憲運動が起こり、第15回選挙で、犬養毅は二度目の逓信大臣に就任した。1924年国会で犬養毅が訴えていた普通選挙がやっと通った。同時に治安維持法も成立してしまい、その後の政治活動、社会運動が厳しく取り締まられ、軍部の力がますます強くなっていった。

1931年、満州事変(日本が中国に戦争をしかけた)が起こり、国内でも重要な立場の人が暗殺された。11月犬養毅は、頼まれて76歳で第29代総理大臣となった。犬養毅は、軍部に対し戦争のおろかさを説き、一刻も早く停戦するように主張。

1932年軍部により、上海事変(中国人を大量虐殺した)が起きた。若い頃から孫文を応援し、ともに東洋の国々と栄えようとしていた犬養毅は、やっと5月5日に日華停戦協定を結んだ。

1932年(昭和7年)5月15日、軍の青年将校の中でも、政府のやり方に不満を持った暴力で自分の意見を通そうとするグループの凶弾にたおれ77歳で逝去された。  

岡山県郷土文化財団「犬養木堂」から抜粋

私の感想

このように素晴らしい政治家が岡山県から出たことを誇りにするとともに、現在の政治の様子を犬養毅が見たとしたら何と言われるか。

75年を経ても、人類は戦争を無くすことはできないし、その火はまさに燃え広がっているという情け無い状況である。国内では政治家とお金の問題で大臣の自殺や緑資源機構の理事自殺があり、政治の暗部が浮き彫りにされている現状である。

犬養木堂記念館

犬養木堂記念館は、第29代総理大臣を務めた犬養毅・犬養木堂(雅号)の足跡をしのぶ遺品、遺墨、写真、手紙等を展示や犬養毅の声を録音したものを聞くこともできます。平成5年10月開館以来の入館者数は、平成17年4月、19万人を超えたそうです。

孫文を支援していた犬養毅は、アジアの国々と共栄共存することを理想としていた。大きな広い目を持っておられたようだ。

家族にも愛情のこもった手紙を多数書かれている。それを読めば、人間「犬養毅」の温かさが分かってくると思う。達筆の書、新聞記者として名を全国に知らしめた文章に触れてみてください。

犬養木堂記念館
場所 岡山市川入102番地1
電話 086−292−1820
交通 山陽本線,庭瀬駅下車タクシー5分(約2Km)
岡電バス,岡山駅西口から庄パークヒルズ線「川入」下車、徒歩3分
駐車場,記念館北側約300メートル新幹線沿い、無料
入館料 無料
開館時間 9時~17時(入館は16時30分まで)
閉館日 毎週火曜日(休日は除く),祝日の翌日(土曜、日曜、休日は除く),年末年始(12月28日~1月4日)
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更新日:2020/03/15