吉備津神社
吉備津神社は岡山駅から西北西にあり、約5、6キロの所にあります。拝殿と本殿があり国宝に指定されています。吉備津神社にお参りしました。今年になって初めての参拝です。
近くなのでサイクリングコースにちょうどいい距離です。
吉備津神社の建物など
平日で参拝客も少なめで、ゆっくりと歴史ある建物や回廊を見ることができました。
まずは、正面の写真です。階段の上には、拝殿と本殿があり国宝に指定されています。 |
拝殿の様子です。なかなかこういう神聖な場所を写真に撮るというのは、ちょっとためらいがありますね。 |
本殿です。屋根の補修が終わったばかりで、金ピカに輝いていました。
ここには、四道将軍大吉備津彦命を主神として、若日子建吉備津彦命、吉備武彦命などの吉備氏一族の神を合祀しているそうです。
合格祈願が行われる所です。絵馬にそれぞれの願いを書いて納めてありました。 |
吉備津神社には有名なお釜殿があります。古来ここで鳴釜神事がおこなわれ、吉凶を占っていました。現在も申し込めば占ってもらえます。この日も鳴釜神事がおこなわれていました。上田秋成の「雨月物語」で全国に知られたようです。 |
吉備津神社楽天 は、回廊が有名です。総延長398メートルで岡山県の重要文化財です。左の写真はほぼ真ん中あたりから上手を見た所です。右の写真はほぼ真ん中あたりから下手を見た所です。
帰りの駐車場の所にあるお店です。「桃太郎」「きびだんご」という文字や赤鬼も見えます。御神酒や甘酒も売っています。 |
売店から西に少し歩くと大駐車場がありますが、そこには、郷土の偉人「犬養毅」の像が高々と立っています。515事件で暗殺された総理大臣です。第二次世界大戦前の不穏な時期に総理大臣になってくれと頼まれて高齢で総理大臣になりましたが、軍の暴走の犠牲になりました。隣国中国とも仲良くして共に繁栄しようという考えでした。清廉潔白な人柄でした。今の政治を見たら何と言われることでしょうか。 |
2009年1月28日、お天気で温かい日だったのでサイクリングで、吉備津神社と吉備津彦神社などを回りました。平成の大改修もすんで本殿の大屋根がきれいになっていました。
「桃太郎」と似ている「鬼退治神話」
温羅(うら)と言い、目は狼のように輝き、髪は赤々として、身長は一丈四尺もあり、腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しい百済の皇子が、我が国へやってきました。
温羅は新山に城を築き、都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れていました。
都の朝廷もこれを憂い、名のある武将を遣わして討伐しようとしましたが、すばしこく変幻自在の温羅を、誰も討伐できず都に逃げ帰るほどでした。
そこで武勇の誉れ高い五十狭芹彦命が派遣されることになりました。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は、吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をしました。
五十狭芹彦命は温羅と戦うことになりましたが、不思議なことに命が射た矢と温羅が投げた石がことごとく空中で衝突し海に落ちてしまいます。
そこで五十狭芹彦命は、一度に二矢を射ることができる強弓を準備させました。一つの矢は海に落ちましたが、もう一つの矢は温羅の左目に突き刺さりました。 温羅は驚ろき雉に姿を変え山中に逃げますが、五十狭芹彦命は鷹となって追いかけます。
温羅は五十狭芹彦命に捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目からしたたった血で川となった血吸川に逃げ込みます。五十狭芹彦命は鵜に変わり血吸川を逃げる温羅を見つけ噛み上げ、ついに捕まえました。
捕まった温羅は五十狭芹彦命に降参し、人民から呼ばれていた吉備冠者を命に献上したので、これ以降五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれることとなりました。
神話に関係する遺跡・神社
- 鬼ノ城(きのじょう)
- 663年白村江の戦いに倭国が敗れた後に、唐・新羅の侵攻を防ぐために築城されたと推測されています。日本書記にも、西日本の要所に12の古代山城(朝鮮式山城)を築いたと記されています。鬼ノ城は、その一つではないかと言われています。しかし、どの歴史書にも一切鬼ノ城のことは書かれていないそうで、これからの解明が待たれます。
- 矢喰宮(やぐいのみや)
- 血吸川が足守川に合流する辺り、岡山市高塚の国道180号沿いの田園の中にあります。吉備津神社と鬼ノ城の直線距離は約10Kmで矢喰宮はそのほぼ中間に位置することから、吉備津彦命の放った矢と温羅が投げた岩とが落ちた場所と言われています。
- 血吸川
- 血吸川は鬼ノ城を源流に、南へ約8キロ下った総社市赤浜で砂川に合流します。
- 鯉喰神社(こいくいじんじゃ)
- 倉敷市矢部の足守川沿いにある神社です。祭神は吉備津彦命の臣下の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と温羅。仁徳天皇が吉備津宮の末社の一つとして創建したと伝えられ、現在の本殿は1842年の建築です。
- その他
- 楯突遺跡(たてつきいせき)は、倉敷市矢部と日畑にまたがる丘にある国指定の史跡です。全長約70m、円丘部直径約50mで、古墳時代以前の3世紀における日本列島最大の弥生墳丘墓となっています。副葬品は、鉄剣、首飾り、当時たいへん貴重とされた朱が大量に発見され、被葬者は3世紀前半の最有力者と言われています。発掘調査により社地全体が弥生時代の墳丘墓であることが判明しています。その他にも、神話に関係する遺跡として、阿曽の郷、鬼の岩屋などがあります。