矢掛本陣文学賞入選随筆2018

第2回目の矢掛本陣文学賞の随筆・童話・作文部門の大人の部の入選に選ばれました。光栄なことでした。2018年の集中豪雨の被害がどのようであったか、一部分でも記録して未来の安全につながれば良いと思います。

平成三十年七月豪雨災害に思う

真備町箭田付近の災害の様子

平成三十年(二千十八年)七月五日、六日、七日と矢掛町では大雨が降り続いた。六月二十八日から七月八日にかけ西日本を中心に全国的に 集中豪雨楽天 が発生した。台風七号と梅雨前線などの影響であった。

その豪雨で小田川が決壊した。真備町では家の二階や一階まで浸水し、多くの人が屋根の上に避難し救助を待っていると、テレビニュースが伝えた。

矢掛町では、東川面、本堀、江良の三ヶ所の堤防が決壊した。そして、小田川沿いの東部から西部までの広範囲の場所で浸水が起きた。土砂崩れも各地で発生し、通行止めになった場所もあった。後に、矢掛町は床上浸水百四十二棟、床下浸水百二十九棟の被害と新聞が書いている。岡山県内の十二市三町に大きな被害が出たそうだ。今まで経験したことの無い猛暑続きの中で、経験したことの無い豪雨災害が起きてしまった。

七月六日、気象庁は岡山県など八府県に「大雨特別警報」を出して、最大級の警戒をするように呼びかけた。これが、岡山県で出されたのは初めてだった。私達は、テレビなどでその情報を耳にしたのだが、頭で理解できずに行動が伴わなかった。人間は経験したことのない事に対しては、全く対応できない、動けないということを知らされた。

「最大級の警戒」とは、どうすれば良いのかわからなかった。まさか、自分の所には水は来ないだろう。来ても被害は大したことはないだろう。災害の無い岡山県に住んでいるのだからと。

しかし、今回のような大水害では無いが、度々水害には襲われている。今回の水害で被災した友人宅は、昭和四十七年、五十五年と水害にあっていたそうだ。今回で三度目となり、とうとう使えなくなった。

私の実家は西川面で、今回浸水が激しかった「マルナカ」の北に位置し、町道から約15メートル上がった山肌に建っている。私が小学生の頃のこと、雨が降り続き小田川が増水していた。家から小田川の泥水が西から東へうねりながら流れていくのが見えた。普段は、川があるのかどうか分からない位なのだが。祖母が、「いつ小田川の堤防が切れるか、分からんな」と、不安げに語っていたのを思い出す。子どもだからこそ、何とも言えない怖さを感じ記憶に焼き付いている。

そんな大雨の時には、私が通っていた小学校では、「向山地区の人は、大雨で橋が流されたら家に帰れなくなるから、今から家に帰ります。すぐ、準備して校庭に並んでください」と、教頭先生が呼びに来た。居残る私達は「いいなあ、早く帰れて」などと、のん気なことを言っていた。しかし、掃除をしたら、すぐに帰らされていた。

今回の豪雨の翌日の七月八日に、夫は真備町に住む友人のことが心配になり様子を見に行った。友人宅は一階の天井まで浸水したそうだ。話によると六日の夕方、隣に住む息子さん一家が車で避難する時に、一緒に行こうと声をかけてくれたそうだ。しかし、友人が少し体が不自由なので、夫婦で二階へいるからと断った。二階に寝ていると、ドンドンと音がしたので下を見ると、階段の下の方へ水が上がって来ていた。そのうち、水は上がる一方で怖くなりベランダに椅子を出して、そこへ避難し助けを待った。110番119番に何度もかけたそうだが「今船が向かっています。順番です。順番です」の繰り返しだった。もう、だめだと諦めていた時に、近所の人がボートで助けに来てくれたそうだ。どんなに不安なことであっただろうと想像するが、真実には及ばない。

真備町二万付近の災害の様子

翌日私達夫婦は、二万に住む従兄弟の家を見に行った。道には泥水が溜まっており、ビチャビチャ跳ねながら車で走った。いつエンストするか心配しながら走った。田畑は泥水がたまり池のよう、ガードレールにはゴミが絡みついていた。コンビニの駐車場には、大きな配送車が半分下の田に落ちかかり、斜めにぶら下がっていた。

道の大きなゴミは、いち早く片付けられていて、何とか右往左往しながら走ることができた。ボランティアの人が一人で道のゴミを隅に寄せておられた。消防車などが行き交っていた。

家に着くと、近所の人達は家の外で車を洗ったりしていた。この辺りの家は二階の床上40~50センチくらいまで浸水し、殆どの人が車を置いて避難していた。南側にある田の 温室楽天 の半円状の大きなパイプの上には、大きなボートが流れ着き乗っかっていた。

近所の人に、従兄弟がどこへ避難しているか聞いてみた。「みんな、てんでバラバラに避難したから、どこへ行っているか分からないんです」急な増水に、みんな命からがら逃げたのだ。

後で聞くと従兄弟は車で一旦避難し、忘れ物を取りに戻ろうとしたら、もう水が押し寄せて来ていたので諦めたそうだ。間一髪の避難だった。車が被災しなくて良かった。しかし、家の家財や設備は殆ど使えなくなった。一緒に暮らしていた母親は一時、妹の家へ行ってもらったそうだ。全員無事で良かった。

次に、友人宅へ向かった。友人は幸いにも近くに親が住んでいた家があったので、そこに移っていた。被災した家の中の大物家具類を家の外に出すことになった。畳や家具類全てが、泥水の中で浮き、揺さぶられ、静かに水が引いていったのでムチャクチャに重なっていた。全てが泥水で濡れて重くなっていた。親戚の人と三人で、畳、ベッド、ふとん、家電類などを出した。「さすが、ピアノは出せないね」と言っていたら、息子さんとその友人達で外に出した。それから、大型冷蔵庫なども出してくれた。本類もたくさんあったが、もう読むことはできない。どれ一つとっても思い出の品だ、そんな物をすべて捨てなくてはならない。当事者だったらどんな気持ちだろうと思うと辛い。

まだ、水道も出ないので洗うこともできない。この猛暑では長時間は動けなくて庭で休憩した。庭木の上の方には、パイプ椅子が斜めに刺さっている。近所の工場から流れて来たのか、板状の物があちこちに散乱している。近所の屋根の上にもいろんな物体が乗っかっている。そんな中、サイレンがけたたましい音を響かせて西へと走っていく。何事だろう。また、サイレンが鳴り赤い車が走る。空には何機もヘリコプターがパタパタという音を出して旋回している。私達は、大物類だけ出して帰った。帰り道、この先で火災が発生して通行止めですと言われ、また戻って道を変えて帰った。その道の片側には、滋賀県からのポンプ車の一団が停車していた。早々に救援に来てくれたんだとありがたかった。

翌日、笠岡市甲弩地区も浸水していると聞き、親戚へ電話したら床上浸水したと言う。次の日、お見舞いに行った。畳を全て上げて庭へ出した所であった。「いつ取りに来てくれるか分からない。暑いので臭くならないうちに来てほしい」と言う。そして、手伝いに来てくれた人が腰痛になって、これから医者へ行くところだと言う。慣れない作業をこの暑さの中、一生懸命手伝ったのだろう。癖にならないうちに完治して欲しい。

分家に行くと、ボランティアさん達五名が庭に出していた畳を笠岡市が取りに来る道まで運んでいた。一階の畳が全てダメになったそうだ。親戚が来て畳を上げようとしても、水で膨らんで動かなかったそうだ。畳屋さんに電話して専用のカギを持ってきて貰い、やっと取ることができたと、教えてくれた。

年老いた夫婦には庭に出して貰った畳を道まで運び出せず、笠岡市へボランティアの派遣を頼んだそうだ。若い男女に還暦前後の男性一人がグループで来てくれた。各地から集った人達だった。こんな猛暑の中を助けていただきありがたかった。

私の友人も、連日中川小学校の片付けに通ったと聞いた。たくさんの人達の助けのおかげで少しずつ復旧している。

家をもう使えなくて倒し平地にした友を見舞った。「うつ病にならんようにと言われるんよ」と話す。年を取って今までの生活が一変し、今まで身の回りにあった物を全て無くし、何かする度に「無くなったんだ」と再認識させられる。慌ただしい日々が去った頃、誰だってうつ状態になりかねないと思う。自分の過失ではなく突然に、あまりにも辛いことが起きたのだ。皆で何もできなくても、「どうしてる」と、声をかけてあげたい。

私達は、今までに何度も水害にあってきている。しかし、人間は忘れ上手だ。そのために、石碑などを建てて祖先が警告してくれているにもかかわらず、百年もすれば苔むして注目されなくなる。「特別警報」が出たら、今までに経験の無い災害の恐れがあるのだ。私達は、どんな行動をとれば最善なのか訓練が必要のようだ。

南海トラフ大地震が三十年以内に起きると言われているが、私達はまだピンときていない。動物のように、危険を察知する能力を高めないといけないかも。

これからは、雨が降れば豪雨になることが多くなりそうだ。国や県や町などに河川の管理を徹底してもらいたい。また今回、高齢者に多くの犠牲者が出たなどの問題点も見つかった。その対応策を考えて欲しい。一人一人が防災意識を高める必要があると思った。

平成31年2月、矢掛町教育委員会発行の「平成30年度 おかやま 矢掛本陣文学賞受賞作品集」に掲載

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更新日:2019/02/23