矢掛本陣文学賞佳作随筆2017

第1回の「矢掛本陣文学賞」の随筆部門で佳作となった作品です。昭和30年代の初めの頃の懐かしい庶民の生活の様子を、記録として残しておきたかったので、まとめられてよかったです。60歳代になってから思い起こして書いたので、若干記憶に誤りがあるかもしれません。原稿用紙10枚の作品です。

幼き日のこと

紙芝居のイラスト

昭和三十年代初め、私が小学校に入る前の頃のことだ。

ある日、私と姉は庭で遊んでいた。すると、下の道の方でチリンチリンと音がした。紙芝居のおじさんが、鐘を打ち鳴らしている音だった。いつもの四つ辻を見下ろすと、おじさんと紙芝居を荷台に乗せた自転車が見えた。

早速、家に駆けこんで母に言った。

「紙芝居のおじさんが来とってじゃあ。早う、お金をちょうでえ」

母は紙芝居のおじさんがいつ来てもいいように、五円玉を小さなガラス窓の敷居に貯めていた。それを、二人分として二枚を姉に渡してくれた。二つ下の私は、どこかで落とすかもしれないと信用されていなかった。

私たちが四つ辻まで来ると、隣近所の子どもたちも十人ほど集まって来ていた。まず初めにお金を払ってお菓子を貰う。紙芝居枠の下に引き出しがあり、その中は仕切られていて、そこにスルメや飴や水飴やお煎餅やゼリーなどが入っていた。好きな お菓子楽天 を二種類選び、貰った。

それを食べながら、紙芝居の見物だ。おとぎ話や「黄金バット」などを見た。最後にクイズがあって、三人ぐらいが答えさせて貰った。正解なら好きなお菓子が一つ貰えた。

私は、「桜の花びらは何枚ですか」に「はい、五枚です」と答えて正解しお菓子を貰ったこともあった。

おじさんは、古い自転車の荷台に紙芝居の荷物を積み直すと、次の場所へと急いで行った。おじさんの後ろ姿を五人ほどで見送った。小さかった私には、おじさんはとても高齢に見えた。

その頃の五円と言えば、メロンパン一個が買えた時代だ。そして、農家では現金収入の少ない時代だった。

だから、父が「子どもだましじゃが。やっちもねえ」と言うので、母は子供に紙芝居を見せてやりたいけど、父に遠慮して毎回見せる訳には行かなかった。

「今日は駄目でえ、次には行かしてあげるからな」と言う時もあった。

その頃は、家に自転車があるくらいで、オートバイがあれば上等だった。自家用車はこの辺りでは見かけなかった。お医者さんが往診に乗ってきたのを、珍しがって見たくらいだ。

買い物にもなかなか行けないという頃で、行商のおばさん達が笠岡からやって来ていた。おばさん達は、いりこやスルメイカ、ワカメ、昆布などの干物を背負って売りに来た。そして、農家からは小豆やもち米などを買って帰った。物々交換に近い感じだった。

夏休みになると、高校生のお兄さんがアルバイトでアイスキャンデーを売りに来た。鐘をチリンチリンと鳴らして。その頃は車もめったに通らなくて辺りは静かだったので、その鐘はよく聞こえた。

「お母さん、アイスキャンデー売りに来とるで」

今考えると、人工甘味料と色粉を使って作られた、決して体に良い物では無かったが、熱い夏に冷たくて甘い物が欲しかった。冷蔵庫も無い時代で、スイカなどは井戸で冷やして食べた。残ったご飯もザルに入れて布巾を掛けて井戸に吊るしておけば、日持ちがした。

アイスキャンデーは、たまには、父の許可が出てお酒を飲まない父と祖母の分も入れて家族五人分五本を買った。ボールを持っていき、長い割りばしの周りに氷がついたアイスキャンデーを入れて貰ったら、走って持って帰って溶けないうちに食べた。

母はお兄さんによく聞いていた。

「ようがんばっとるなあ。高校何年生」幼な心にも、青年特有の爽やかさに好感を持っていた。

また、ロバのパン屋さんも来ていた。「ローバーのパン屋さん、……」という音楽を鳴らしながらやって来た。母と一緒に下の町道へ急いで降りた。すると、馬の後ろに大きな台車があり、上に木の箱がついていた。その箱の中にパンがきれいに並べられていた。馬はとても大きくて、きれいで、おとなしかった。

私は不思議でしようがなかった。そこで、意を決して尋ねた。

「おじさん、どうしてロバじゃあねえん」

「ロバは、小さくて早う走れんから馬の方が便利なんでえ」母も、つけ加えた。

「そりゃあ、ロバはかわいいけえど、仕事をさせるにゃあ、馬の方がええでしょうなあ」

 私はがっかりした。せっかく「ロバのパン屋さん」なんだから、ロバで来てえよう。力が抜けた気がした。

あんパン十円、メロンパン五円だった。他にも種類はあったと思うが、買ったのは、いつもこの二つだった。

その頃の道は、雨が降れば土が流れて水たまりができるような、でこぼこ道だった。しかし、馬の脚には土の道が良かったと思う。

その頃、変わった人が家にやって来た。

私が庭で遊んでいると、兵隊さんが来た。初めて見る「これぞ兵隊」という格好をしていた。兵隊帽と兵隊服と靴を履いて、ゲートル(脚絆)を巻き、腰にはベルトを締め、そこにはコップなどもぶら下がっていた。大きなリュックを背負った大柄な人だった。

「お母さんはいるか」

私は頭を下げると、すぐに家に入り母に言った。

「お母さん、兵隊さんがお母さんを呼んどるで」

母は誰だろうと思いながらも、私が慌てているのですぐに庭へ出た。すると、兵隊は、アルミのお皿を黙って前に差し出した。

「ご苦労様でした。少々お待ちください。」

母は梅干しを入れた大きなおむすびを二つ作ってお皿に入れた。そして、兵隊へ渡した。

兵隊は、両手を合わせて一礼して帰って行った。

「お母さん、あの人は何なん」

「戦争から引き揚げて来られたんじゃろう。家も家族も無くしちゃったかもしれんなあ」

そこへ、祖母が出て来て言った。

「あんなに太ってええ体をして、働きゃあええんじゃあ。騙して歩いとるんかもしれん」

そう言えば、お腹も出ていてよく太っていた。ここら辺では、あんなに太った人は見たことないなあ。おばあちゃんの言うことも正しいかもしれん、と私は感じた。

「でもな、おばあさん、家には戦争で誰一人も死んどらん。その点はありがたいと思わにゃあ。あの人だって、戦争に行って辛い目に合っとるかもしれんし」

うーん、詳しい話を聞かんと分らんな。でも、おむすびを食べて元気を出して欲しいなあと思った。

戦後を強く感じたことが、もう一つあった。もう少し大きくなって、小学校の中学年の頃のことだった。

近くの公会堂で、子供服のバザーがあった。私は母に連れられて行った。三十人前後のお母さんと子どもが集まっていた。その内トラックが来て、大きな袋を下した。子ども服が山のように広げられた。その中から、母は私に似合いそうな服を選んだ。四、五枚ほど貰って帰っただろうか。

家にもう少しという所の道端で、母は言った。

「もう一度着てみて」

「よう、似合っとるで」母は満足げだった。

「この服はな、 アメリカ楽天 の人が要らない服を日本の子ども達のためにと、送ってくれたものなんよ。お父さんは、『アメリカは岡山にも焼夷弾を落として焼いた、広島や長崎には恐ろしい原子爆弾を落とし大勢殺した、何でそんな国の物を貰うんなら』言うから内緒で行ったんよ」

「そうかな」と言ったものの、どう答えてよいか分からなかった。

母が気にいっていたのは、ブルーのカーディガンだった。地模様があり、襟は白いレースだった。素材はまだ日本では珍しい化学繊維だった。

しかし、その化繊が災いして、首回りが痒くて殆ど着られなかった。もう一着はブラウスだった。これは、かなり着た気がするのに殆ど覚えていないのは不思議だ。

また、この頃の給食は思い出深い。小学校一年の頃はお弁当を持って、冬はストーブの上で温めてから食べていた。

間もなく給食が始まった。小学校に給食室があり、そこで作られた。まだ、ガスも整備されていなくて割り木を使っていた。割り木当番があり、子どもが学校まで運ぶのは重いので高学年に限られていた。担任から針金で作った輪を渡され、家でその輪の中へ割り木を詰めて持って行った。

野菜を持って行く日もあった。カレーなどの献立が近くなると、じゃがいも、人参、玉ねぎなど、家にある物を一種類選んで持って行った。大まかな量も決まっていた。

給食は、アルマイトの四角いお盆の上に、コッペパン、おかず、ミルクがそれぞれ器に入って置かれる。時には、一品増えたりした。

私が大好きだったのは、揚げパンと鯨の竜田揚げだった。嫌いな物は、脱脂粉乳を溶かして作ったミルクだった。生ぬるいので、余計に変な匂いがした。それと、みそ汁も嫌いだった。今では毎日飲んでいるのだが、その頃はなぜか嫌いだった。

脱脂粉乳はユニセフから寄贈された時代もあったようだ。

私は、今年六十六歳になったが、昔のことが、懐かしく思い出される。その後ずっと平和が続いたからこそ、思い出せるのだと思う。日本の戦後七十二年が、ずっとずっと続いて平和でありますようにと願ってやまない。

平成30年2月、矢掛町教育委員会発行の「平成29年度 おかやま 矢掛本陣文学賞受賞作品集」に掲載

キキョウの花
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更新日:2019/02/26