大原美術館

倉敷市美観地区にある 大原美術館楽天 は、大原孫三郎氏が、1930年に現在の倉敷市中央1丁目に開館された、わが国最初の西洋近代美術館です。収蔵作品は約3000点です。開館80周年で来館者数が、約3300万人に達しました。

展示されている主な作品は、児島虎次郎(大原孫三郎氏にその優秀な画才と人柄を認められ援助を受けていた)の作品と、児島虎次郎が3度も渡欧して収集した立派な作品群です。

岡山の誇り・大原美術館

児島虎次郎は、大原美術館が開館した前年の1929年に脳出血で48歳で亡くなりました。大原孫三郎氏は、児島虎次郎の作品や収集した作品が、いつまでも郷土の人、日本の人々に文化や愛を与えられるように、追悼の意味もこめて大原美術館を設立されたことと思います。

 大原美術館は、岡山県人にとって郷土の誇りです。世界の名画が身近にあり、いつでもゆったりと落ち着いて見られる環境にあるのですから。それにしては、もっともっと頻繁に足を運んで美の世界に浸らなくてはなりませんね。小学生、中学生、高校生、大学生の間に最低一度ずつは訪れて名画鑑賞したいものです。見ると何か感じるはずです。小学生は小学生なりの感想があるでしょうし、大学生にはもっと深い思いが出でくるはずです。

大原美術館は倉敷美観地区にあり、倉敷川の周辺には、昔をしのばせる蔵屋敷もあります。川岸の柳が風流です。倉敷考古館、倉敷民芸館、倉敷アイビースクエアもすぐ近くにあります。

展示作品の一部

エル・グレコ(受胎告知)、モネ(積みわら)、ルノワール(泉による女)、セザンヌ(水浴)、ゴーギャン(かぐわしき大地)、ロートレック(マルト・X婦人の肖像)、ルオー(道化師)、ユトリロ(パリ郊外)、ピカソ(頭蓋骨のある静物)などなど多数。

まず、玄関の両脇にあるロダン作の銅像が出迎えてくれます。中ではやはり、エル・グレコの受胎告知が重厚な美を見せてくれます。美術の時間に習った有名な画家の絵が目白押し。一枚一枚をじっくりと鑑賞していきます。絵画というのは、一瞬の美、表情、光、しぐさ、動きを捉えたもの、表現したものだと思います。とくに、光・陰影は大事な物だと感じました。

棟方志功の版画作品のど迫力に圧倒されます。陶器館の焼き物は、それぞれの作家の特徴が感じられて勉強になります。

自分の好きな作品を探すぞという思いで見ていくと、とても楽しいです。何度も訪れるとだんだんと親しみも増してくるようです。せっかくの名品揃いの大原美術館ですから、ぜひとも気軽に行って見られることをお勧めします。

児島虎次郎と大原孫三郎

明治35年、児島虎次郎は、大原家に招かれました。21歳の虎次郎は、素朴でまじめでした。孫三郎は若者をヨーロッパで絵の勉強をすることを支援することにしました。

虎次郎は、絵を買いたいと孫三郎に頼みました。虎次郎は、モネ「積みわら」、クールベ「秋の海」、コロー「ラ・フェルテ・ミロンの風景」など、直接画家に会って買う交渉をし画家本人から買いました。

孫三郎から、もう一度絵を買いに行って欲しいと頼まれ、2回目はドイツやフランスなど7カ国を回ったそうです。エル・グレコの「受胎告知」は、今の価値で1億円の値段で買いました。その後フランスが買い戻しを言ってきました。

児島虎次郎は、10年間で100点の絵画を集めたそうです。今では値がつかない作品ばかりとなりました。

虎次郎は、6年後47歳で亡くなりました。昭和5年、虎次郎の死の翌年に大原美術館ができあがりました。孫三郎は、虎次郎の絵のセンスを信じて、お金を送りました。

フランスで賞を取った虎次郎の絵「着物を着たベルギーの少女」は、入り口入ってすぐの所に展示してあります。孫三郎の虎次郎への感謝の気持ちだと思います。

大原美術館、第一号コレクション、アマン・ジャン「髪」

大原美術館の第一号コレクションは、アマン・ジャンの「髪」です。20世紀初頭に活躍したフランスの画家です。アマン・ジャンは、甘美な女性像を数多く描き人気を博しました。

この「髪」は、若い女性が髪をとかしてもらっている所を描いています。若い女性は、少し口を開けて、気持ちよさそうな感じです。

児島虎次郎は、日本の芸術家や日本の文化のためにも、この絵は有益であると、大原孫三郎に伝え買うことになりました。

ルノワール「泉による女」

フランスの印象派・ルノワール作の「泉による女」は、児島虎次郎が直接ルノワールに制作を依頼しました。この絵は、大原美術館のために描かれた作品です。持ち帰る時には、絵の具がまだ乾ききっていなかったそうです。

ルノワールは、風景を描くことが多かったですが、人物画でももっと周りの情景を描いたそうです。

この「泉による女」は、女性の美しさを描こうとしていると言われています。

モネ「睡蓮」

印象派の巨匠のモネの家を訪ねて、児島虎次郎は、直接モネに「睡蓮」を譲り受けました。これは、モネが自宅の睡蓮を描いた250点の連作の一つだそうです。

画面いっぱいに池の水面が描かれています。

モネ「睡蓮」は、近くで見ると色班が見え様々な色が使われていることがわかります。そして、少し離れて遠くから見ると、池の水面に周りの木々が映り込んでいる様子や画面の絵がよく分かります。

本館の建物の大きさを決めたフレデリックの絵

大原美術館の本館は、ローマの建築様式を取り入れています。玄関前には、ロダンの彫刻が左右に飾ってあります。右側には、カレーの市民・ジャン=ダールが立っています。左側には、洗礼者ヨハネの像が立っています。

この本館の建物の大きさを決めた絵があります。ベルギーの画家フレデリックの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という題の絵で、25年の歳月をかけて完成させた超大作です。

16×1100cmという大きさをそのまま展示できるように考えて建物が設計されました。この超大作の絵を譲ってもらったと言う奇跡に報いる、感謝の気持ちを込めて展示するためだったようです。

『人類は神の怒りをかい、炎にまかれ、岩に打ちのめされて死に絶える。そこへ神の使いである白鳩が福音を持ってくる。そして、神の愛のもとに人類すべてが復活する』というキリスト教の物語が左から右へと展開していきます。

寺院、十字架像、善悪をはかる天びんなど、キリスト教を象徴するさまざまな事物が描かれています。

エル・グレコ「受胎告知」

1541年生まれのギリシャの画家、エル・グレコの描いた「受胎告知」は、大正11年にパリの画廊で売り出されていたそうです。それを児島虎次郎が大原孫三郎の指示で、今の価値で1億円の値段で買いました。その後フランスが買い戻しを言ってきたほどでした。

この「受胎告知」の絵は、聖母マリアが天使ガブリエルからキリストの受胎を告げられる場面が描かれています。天使が左手に持つのは、マリアの純潔を象徴する白百合の花です。中央に舞い降りているのは、聖霊の象徴の鳩です。聖母マリアと天使ガブリエルを斜めに配したところから、動きや表情が生き生きとしています。

同じ構図の「受胎告知」は、世界の3点しかなく、日本にあるのは、奇跡と言われています。

ドガ「赤い衣裳をつけた三人の踊り子」

ドガの「赤い衣裳をつけた三人の踊り子」は、パステル画のために常設展示できないそうです。ドガは、歓楽街や競馬や踊り子、働く女性の姿など、パリの現代生活を描くことに関心をもつようになりました。

出番を待つ踊り子たちの膝から下は、舞台装置によって見えません。こうすることによって、舞台のほうへ神経を集中する踊り子たちの表情を前面におしだしているそうです。

ピサロ「りんご採り」

印象派、ピサロの代表作です。昭和16年、児島虎次郎は、収集した作品12点と交換してこの絵を手に入れました。

りんごを食べる人、落とす人、拾う人を描いて、食への循環を描いているそうです。点描で描かれています。そして、日本の浮世絵の影響を受けているそうです。真ん中の暗い影のような所が浮世絵の影響だそうです。

岸田劉生「童女舞姿」

明治時代に活躍した岸田劉生が、娘の麗子をモデルに描いた絵です。「麗子像」なども有名です。岸田劉生が京都に移ってからの絵だそうです。

着物の重厚な感じ、ちょっと湿った感じがよく出ている作品だそうです。この絵は、麗子9歳の時の肖像だそうで、扇をもつ静かな立ち姿には、岸田がめざした「浮世絵風の味」がうかがえるようです。

関根正二「信仰の悲しみ」

20歳で亡くなった関根正二の19歳の時の代表的な絵だそうです。国の重要文化財となっています。幻が描いてあるそうです。失恋し、病気の手術もうまくいかず、失意の底にあったようです。この絵の完成の翌年に亡くななったそうです。

関根自身がこの作品について「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人私の目の前に現れるのです」と語っていたそうです。

芹沢銈介「沖縄絵図」

染色工芸家の芹沢銈介の「沖縄絵図」は、染め物や陶器が展示されている工芸館・東洋館にあります。

芹沢銈介の「沖縄絵図」は、沖縄の伝統的な紅型の染めを重ね、沖縄の風景や産物を図柄にしてあります。鳥瞰図の姿をしていて、風物を盛り込みながら、紅型の美しさ、いきいきとした気持ちも伝わってきます。

梅原龍三郎の「竹窓裸婦」

天意無縫の色彩画家と呼ばれた梅原龍三郎が49歳の時の絵「竹窓裸婦(ちくそうらふ)」は、大原美術館で展示されています。背景の竹林から注ぐ光に裸婦の身体が、緑色に染まっている絵です。椅子に青色の布を敷き、その椅子に裸婦が足を組み、両手を肘掛けに置いて堂々としています。緑色で描いた裸婦の輪郭と肌、その中に赤が唇、乳首、へそなど数カ所にあります。

大胆な構図は、生命の喜びや豊饒さを表していると言います。それは、ルノワールが目指したものと合致するそうです。

「竹窓裸婦」の緑は、緑青に油を混ぜた物で、梅原龍三郎が考え出した日本を描くための絵の具であったようです。ヨーロッパには、ヨーロッパの光、風景に会う色があり、日本には日本の光、風景に会う色があるはずだと、独自に探し抜いた色でした。

梅原龍三郎は、20歳の時から5年間フランスのパリで絵の勉強をしました。その時に心酔していたルノワールを訪ねました。運良くルノワールに会え、ルノワールに梅原龍三郎は気に入られ、訪ねて来るように言われました。ルノワールは梅原龍三郎の天性の絵の気質をほめてくれました。

また、ルノワールの画布が透けるほどの薄塗りの描き方も学んだりしました。その時、68歳のルノワールは、リウマチの進んだ手に包帯を巻いていたそうです。(2009.8.3) 

ゴーギャンについて

倉敷大原美術館には、ゴーギャンの「かぐわしき大地」が展示されています。

ゴーキャンは、1848年パリに生まれました。二月革命の年で、ジャーナリストの父は一家でペルーに亡命しました。その後父は急死し、数年後に一家はフランスへ帰国。航海士となったゴーキャンは、南米、インドを訪れました。その後独仏戦争に参加、戦争後は証券会社に勤務。デンマーク出身のメットと結婚し、5人の子どもをもうけました。

1883年(35歳)に株が大暴落し会社を辞めて絵だけに専念するようになりました。

1886年からブルターニュ地方のポン・タヴェンで制作に励みました。

1888年南仏アルルでゴッホと共同生活を始めるが強烈な個性の二人は衝突を繰り返し「ゴッホの耳切り事件」が起こり、共同生活は終わりました。

1891年西洋文明に絶望し家族を残して、楽園と思われるタヒチへと渡りました。マオリ族の先祖代々の暮らし・汚れのない原始に惹かれて絵を描きました。

1893年タヒチでは貧困と病気に悩みフランスへ帰国。叔父の遺産を受け、パリにアトリエをかまえるが、絵は売れなかった。

1895年パリに居場所を失い、再びタヒチへ。妻との文通も途絶え、貧困と病気で死を決意しました。(心臓病で歩くことも困難になっていました。子ども5人のうちの一人娘アリーヌが19歳で亡くなったという知らせを受けて失意のゴーギャンは自殺を試みたこともありました。)

1897年遺書がわりの大作「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」を丸1ヶ月で仕上げました。もうこれ以上の物は描けないと言ったそうです。

1901年もっとへんぴなマルキーズ諸島へ渡りました。

1903年54歳で死亡しました。

(1919年にモームが出版した「月と六ペンス」のモデルは、ゴーギャンだと言われています)2009.8.8

大原美術館の主な歩み

1930年
11月5日開館、初代理事長・館長に武内潔真が就任
1951年
アンリ・マティス展、パブロ・ピカソ展
1961年
分館・陶芸館完成
1963年
芹沢銈介染色館、棟方志功版画館完成
1964年
第2代館長に藤田慎一郎が就任、大原總一郎が理事長に就任
1970年
東洋館完成
1972年
児島虎次郎室開館
1982年
第1回ギャラリー・コンサート開催(2005年に100回)
1991年
大原謙一郎が理事長に就任、本館増改築完了
1998年
第3代館長に小倉忠夫が就任
2002年
第4代館長に高階秀爾が就任
2005年
「ARKO」という取り組みを実施。作家を倉敷に招き、作品を創作してもらう取り組みです。新進作家の創作活動のサポートの一つです。児島虎次郎の使っていた60坪のアトリエを使って、作品を作ってもらうそうです。

大原美術館、開館80周年記念(2010年)

2010年11月3日夜、大原美術館では開館80周年記念を記念し、ろうそく5000本をともしました。

生誕130年を迎えた大原孫三郎氏が辰年生まれだったことにちなみ龍をデザインしました。龍のモデルは、大原美術館の前を流れる倉敷川に架かる「今橋」の欄干に彫られた龍だそうです。この龍をデザインしたのは、児島虎次郎です。

ろうそくを囲む和紙で作った筒状の物には、倉敷市内の小学生らがポスターカラーで色づけしました。7日午後5時からも、大原美術館中庭と周辺の美観地区でも行われます。

大原孫三郎、生誕130年記念(2010年)

大原孫三郎は、独自の審美眼で、日本や中国、朝鮮の優れた美術作品を収集しました。孫三郎が収集した物やゆかりの物、国宝、重要文化財を含む8件の珠玉の作品が公開され、大原孫三郎の日本美術への眼差しが紹介されています。

開催期間は、2010年10月30日~ 2010年11月7日です。

大原美術館分館
大原孫三郎の生誕130年記念した特別展「大原孫三郎、日本美術への眼差し」が行われています。国宝「宮女図」伝銭舜挙画など4点を展示しています。
有隣荘
円山応挙の「猛虎図」や伝長澤蘆雪(ろせつ)の「群龍図」など4点が並んでいます。

大原総一郎氏による大原美術館の充実

第2次世界大戦後、大原孫三郎氏の後を継いだ大原総一郎氏は、分館(日本洋画、現代絵画、彫刻 )、陶器館(バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司)、棟方版画館、芹沢染色館、東洋館、児島虎次郎館(倉敷アイビースクエアの敷地内にある)を開館された。また、収集できていなかった、ドガ、ルオー、ピカソ、シスレーなどの絵画を集めて大原美術館の充実を大いにはかられた。

大原総一郎氏の略歴

1909年(明治42年)7.29~1968年(昭和43年)7.27、享年59歳。実業家、大原孫三郎氏の長男。ヨーロッパ各国を視察した後、1939年(昭和14年)29歳で社長に就任。

1947年(昭和22年)物価庁次長を務め、経済復興に尽力したが。1年足らずで退官し、倉敷絹織の社長に復帰、ビニロンの開発に成功した。

京阪神急行電鉄、日本瓦斯化学工業、中国電力、朝日放送、大丸、アラスカパルプ、山陽放送などの役員を歴任。

関西経済同友会代表幹事、関西経済連合会副会長、経団連常任理事を務め、関西経済界に重きをなした。

大原孫三郎氏の精神を受け継ぎ、文化事業、社会事業を深めた。経済文化人として、各種の委員をも務めた。

郷土倉敷を愛し、大原美術館を大いに充実させ、倉敷民芸館、倉敷考古館も開設し、文化都市倉敷の充実に努めた。岡山県大百科事典 山陽新聞社 刊行から

大原孫三郎氏の業績

1880年(明治13年)7.28~1943年(昭和18年)1.18、享年63歳。実業家、社会事業家。倉敷市生まれ、大原孝四郎の二男。

1897年(明治30年)東京専門学校(早稲田大学)に学んだが、在学中、足尾銅山の鉱害地区を視察し企業の社会的責任を痛感し、学業を中退して郷里へ帰った。帰郷後、石井十次に接してキリスト教に入信、倉敷を東洋の聖地にすべく育英事業(大原奨学会、倉敷教育懇話会の設立)などの社会事業に奔走した。

1904年(明治37年)家督を継ぎ、倉敷紡績社長となる。中国銀行、倉敷絹織、三豊紡績、日本莚業、倉敷電灯、備作電気、中国信託、京阪電鉄、岡山合同貯蓄銀行、中国合同水力電気などの社長、取締役に就任した。

倉敷中央病院(倉敷町民と倉敷紡績の従業員の健康衛星増進のために1923年に東洋一の施設を持つ病院を開設)

新渓園(大原家別邸)を倉敷市へ寄贈

石井記念愛染園(石井十次の志を継いで設立した、大阪の救済施設)

大原社会問題研究所(「日本社会事業年鑑」・「日本労働年鑑」を刊行)

大原農業研究所

倉敷労働科学研究所(「日本社会衛星年鑑」の刊行)

若竹の園(保育施設)

岡山県大百科事典 山陽新聞社刊行 から

1人の人間が、これだけ多くの偉業を成し遂げたことに驚くとともに敬意を表したい。若くして足尾銅山の公害を見聞きし、心に刻んだ思いを一生持ち続け、信仰とともに歩んでこられたのだと思う。

人間を愛し、故郷を愛し、理想(倉敷を東洋の聖地に )に突き進んでこられた大原孫三郎氏、亡くなられてから64年経ちますが、私達は大原美術館、新渓園の文化に触れ、倉敷中央病院の高度な医療技術を受けることができます。倉敷に偉人、大原孫三郎氏・子息大原総一郎氏がおられたおかげかなと、今更ながら思っております。

大阪企業家ミュージアムで大原孫三郎氏の功績を紹介

大阪商工会議所が運営する「大阪企業家ミュージアム」(大阪市中央区)では、様々な分野で活躍したパイオニア達を紹介している。

展示されているのは、倉敷紡績などを経営し大原美術館を建てた大原孫三郎をはじめ、シャープ創業者の早川徳次、ダイエーの中内功、大和ハウス工業の元会長の石橋信夫、即席めんの生みの親の安藤百福の各氏ら100人余である。

企業意欲にあふれ、時代を切り開いた先人たちの足跡をたどれる。

2001年にオープンし、年間1万人以上が見学に訪れている。大人300円、学生100円、10人以上の団体は割引きがある。

問い合わせは06-4964-7601 2008.3.26 読売新聞から抜粋

児島虎次郎の略歴

1881年(明治14年)4.3~1929年(昭和4年)3.8、享年47歳。洋画家。岡山県成羽町生まれ。東京に出て、藤島武二氏に学ぶ。大原孫三郎氏の援助で東京美術学校へ入学。

「情の庭」は、岡山孤児院を写生したもの。

1907年、内国勧業博覧会で一等賞をとり、宮内省に買い上げられた。

1908年、フランスへ絵の勉強に行く。

1909年、ベルギーの美術学校へ。

1912年、ベルギーの美術学校を首席で卒業。石井十次の長女、友子と結婚、酒津に住む。その後二度渡欧し、美術の研究や大原コレクションの収集をした。その間に、サロン・ソシエラ・ナショナルに推挙され、ルクサンブール美術館に児島虎次郎の作品を買い上げられた。

1926年(大正15年)、帝展に出品。

1927年、帝展の審査員となった。

1929年、松方家依頼の明治神宮絵画館の壁画を制作する準備中に脳出血で倒れ47歳で逝去。

児島虎次郎の遺作の主な物は、児島虎次郎記念館(倉敷市本町、倉敷アイビー・スクエアの敷地内にあります)

児島虎次郎は、30歳代は、買い付けに回り、40代から自らの絵画制作に取り組みました。しかし、47歳で脳出血にみまわれ帰らぬ人となってしまいました。

大原孫三郎は、児島虎次郎の死の翌年・昭和5年には、大原美術館を開館しました。児島虎次郎が、日本の芸術界のために有益であると選んだ絵を展示することが、供養になると思われたのだと思います。

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更新日:2020/03/15